イエスさまは道・真理・いのち

2018年5月13日 ヨハネによる福音書 14章1~7節

◎世には様々な道がある。しかし、天国に通じる道がない。どこを通っても自由だが、張り巡らされた道は迷路のようで、それは現代の荒野だ。
◎出エジプトしたイスラエルは荒野を通過して約束の国に入っていった。道なき荒野で神は「律法」(十戒)を与えられた。まさに、荒野における「道」だ。そこを通って約束の地に入って行くのだ。

◎旧約で啓示された道 ……十戒(律法)は広い道ではない。道にはおのずと左右の幅があるものだ。窮屈だからとこれを広げたら、それは道ではなくグランドだ。どこを通って良いのか分からない荒野と化してしまう。イスラエルの人々はこの旧約の道 を反れたり、壊したりする歴史だった。

◎新約にいたってイエスはわたしが道だと宣言なさった

◎イエスの道とは、律法を廃棄するためでも、律法の道を広げるためでもない。むしろ完成するために来られた。むしろ、狭い門であり細い道だと言われた。しかし、この道こそ天に通じる道だ
◎イエスの道には途中こんなことがあるとか、あと何kmとかといった表示がない。だから、迷うし不安になる。しかし、イエスを信じ礼拝するという道を進めその道こそが天に通じる道だ
◎世に様々な真理があるようでも、創造主なる神を見出す事の出来る道こそ真理だそれこそ本当のいのちに通じる道だ
◎弟子たちが心騒がせていたのは、地上の道、地上の楽園、地上における肉体のいのちに捕らわれていたからだ。主イエスは再臨なさる。この希望を見失うので心が騒ぐ。主イエスを待ち望めこの道を進もう

イエスさまは良い羊飼い

2018年5月6日 ヨハネによる福音書 10章1~16節

 

イエス様は良い羊飼いであり、私たちは人間は羊だ。

①羊はとても弱い動物だ。……それと同じように人間も弱い存在。
◎羊飼いなくして存在できない弱い動物。私たちも弱い存在だ。羊飼いなるイエス·キリストの守りと導きなくして生きることのできない存在であることを謙虚にみとめよう。

②羊は羊飼いの声を聞き分ける。
◎羊は近眼だ。先が見えないので、周囲の仲間と同じ行動をする習性がある。人間もよく似ている。
◎しかし、羊は羊飼いの声を聞き分ける。私たちも「見る機能」よりも「聞く機能」を研ぎ澄ませるべきだ。雑多な声や言葉が氾濫する中で、イエス様の声を聞き分けているか。

③羊は従順な家畜だ。……それに対して「獣」は聖書で何といっているか。
◎神は動物を創造なさるとき、家畜と獣を区別して創造なさった。家畜は主人を持つ動物。獣は主人を持たない動物。犬は家畜、狼は獣。
◎神に敵対する王と王国のことを聖書は「獣」と呼んでいる。第四の獣は終末の時代に登場する (黙示録)。
◎私たちは神を主人とする家畜の立場。羊飼いなるイエスに従順する羊の立場だ。決して獣の印を捺されてはならない。

◎良い羊飼いなるイエス様は、私たちに豊かないのちを得させてくださる。
◎また、私たちのためにいのちをお捨てになる主だ。困難を前に逃げ出すような偽りの羊飼いではない。そして、私たちの名を呼んでくださる。

ヤベツの信仰

2018年4月29日 第一歴代誌  4章9~10節

比嘉正元牧師による説教です。

 

①悪い環境で育ったヤベツ
◎ヤベツは母親が悲しみの中で産んだと言うことで、悲しみや苦しみを意味する〝ヤベツ〝と命名された。
◎ユダヤ人の思想として、名は体を表すと考えられている。そんな中で彼は、毎日のようにヤベツとよばれた。さて、どんな感情が生まれるのだろうか。どんな運命をイメージするのだろうか。

②ヤベツの神への信仰

◎自分の生い立ちや運命から見ると、良い人生を描きにくい。しかし、ヤベツは逆境から、運命を変える神へ訴え始めた。
◎旧約の時代に、ヤベツは「神は良い神だ」と考え、「恵み豊かなお方だ」と考え、「自分が苦しむ(ヤベツ) ことのないように」と祈った。
◎これがヤベツの神への信仰で、自分の人生を大きく、大胆に描いた(4:10)。

③神と共なるヤベツになった
◎ヤベツは自分が悪い環境で育っても、神と共に歩む自分の人生を描いた。神はその願いに応えてくださった。
◎新約の私たちは、より明確にキリストに贖われた人生を歩む者となった。ガラテヤ3章13節にあるように「律法の呪いから贖い出して」くださったのです。これはアブラハムへの祝福が異邦人の私たちに及ぶためです。
◎どんな環境に生まれようと、神と共に歩む新約のヤベツは、自分の人生を大きく大胆に描き、神に求め祈ることができるのです。
◎あなたはどのように求めるのか。

原因から目的へ

2018年4月15日 ヨハネ福音書  9章1~3節

 

①弟子たちは原因を問うた
◎生まれつき盲人の男が盲目であるのは誰のせいなのかと問うた。原因を問うたのだ。原因を解決して前を向くはずが、往々にして「後ろ向き」の生き方をしてしまう。原因探し、犯人捜しは迷路に迷い込む。
◎聖書は「前を向け」と命じている。前を向けないのは「ゆるし」がないからだ。
◎聖書によれば原因は明確だ。それは罪の結果であり、罪の結果である死が我々を支配しているからだ。

②イエス様は目的を示された
◎原因である罪と死はイエスが十字架で負われた。そして、原因ではなく目的を示された。目的を示して、私たちの目を前に向けさせられた。その「目的」とは、神の御業が現れるため。神の栄光が現れるためだ。
◎そもそも、原因である罪を人間が犯すことは、神の想定内。神は、人間を御使よりも低く(弱く)創造なさった。それは、罪を犯す弱さだ。神は、人間が罪を犯したので慌てて救いの計画を立てられたのではない。
◎あなた方は今宵わたしにつまずく……と、弟子たちの躓きをご存知であった。つまり、人が罪人であることをご存知の上で、私たちを愛してくださったのだ。それは、人間が失敗のない完璧な存在となる為ではなく、罪という弱さ故に神を愛し神を礼拝する者となるためだ。
◎盲人であった男は、肉眼が見えるようになっただけでない。ユダヤ社会から追放されてもイエスを信じて礼拝した(9:34-38),霊の目が見えるようになったからこそだ。
◎これこそ御業だ。これこそ栄光だ。私が罪人であるのは、神の栄光が現れる為なのだ。だから、神のゆるしを得て、神を愛する者になろう。

イエスさまは世の光

2018年4月15日 ヨハネ福音書  8章12節

 

①光は暗闇を照らす。
◎神は昼と夜を創造された。聖書の一日は「夕となり朝となった」。光のある朝で終わっていることに注目しよう。
◎人類が作り出した「光」。ロウソクの灯。電気の光。科学の光もある。神が創造なさった光もある。でも、いずれも照らす範囲には限界がある。罪と死の世界を照らすことが出来ない。

②本物の光が来た。それは神のひとり子としての「栄光」。
◎それを照らすのは神ご自身の光。聖書はそれを「栄光」とよぶ。神の御子イエスはその栄光を世に現された。旧約時代には律法によって、罪の世界を照らされたが、それはひとり子の栄光から比べるなら、わずかな光であった。
◎ひとり子としての栄光は、罪と死の世界まであばき出すので、悪霊が出て行き、悪魔(サタン)の罪が裁かれ、私たちは救いを受ける。
◎姦淫の婦人は律法の光によれば死を宣告され、御子の光によれば救いを宣告される。

③闇の中を歩くことがない。
◎失望と落胆に押しつぶされているか。それは闇の中を歩んでいる。神の御子の栄光(御言の光)で照らされる。外なる人で落胆しない。日々新たにされる内なる人が照らされる。
◎恐れが支配しているか。しかし、霊魂まで滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるなとの御言に照らされる時、恐れという闇は消滅する。
◎憎しみや恨みに支配されているか。復讐するのはわたしだ、といわれる御言は、自分が神となって復讐しようとしている己から自由にさせる。

いのちのパン

2018年4月8日 ヨハネ福音書  6章52~66節

説教を楽しみにしてくださっていた方には大変申し訳ございません。録音機のトラブルにより今週の音声データを公開することができません。お詫びして、説教の要約を下記にてお伝えいたします。

◎イエス様はご自分を天からくだってきたいのちのパンと称された。多くの人々は、霊的な事柄に目が閉ざされていて、肉体の空腹を満たすことに関心があった。
◎肉体のいのちが最高の値打ちだと考える人々は、長生きで、健康で、五体満足であることが祝福と考える。そのようないのちは、数値でしか測れない程度のいのちだ。イエスのいのちはそれをはるかに超える。
◎短い寿命の人でも、障がいをもっている人でも、他者に希望や恵みを分かち合う人がいる。分けても減らないいのちだ。5つのパンと2匹の魚のように、人々に分けても減るどころか増えるいのちのことだ。
◎人に分けたら減ってしまうように思うのは、肉体のいのちしか知らないからだ。だから、イエス様は「わたしを食べて、わたしの持っているいのちを受けよ」と言われた。
◎旧約聖書に記録された天からのマナ(パン)は、一時的に肉体の空腹を満たしたに過ぎない。しかし、今や本当のパンが……神の御言が人となって来られたイエスが降ってこられた。このお方を食べる(神の御言を受ける)ものは永遠のいのちを持つのだ。
◎自分は肉体的な存在であると同時に、霊的存在であることを知ろう。パンだけで生きるのではなく、神の御言(いのちのパンであるイエス様)を食べて生きる者であることを知ろう。
◎永遠のいのち・・・それは、私・霊魂を生かす。わが内なる人が生きるので、この肉体も活かされる。プラトンの「霊肉二元論」ではない。この肉体は、神の聖なることに、神の義と愛を現すために用いられる。「体を生きた聖なるそなえものとして神に献げる。これこそ霊的な礼拝である」(ローマ12:2)。

世界で最初の復活礼拝

2018年4月1日 ヨハネ福音書  20章24~29節

 

イエス様の復活は週の初めの日(日曜日)であった。このことから、キリスト教会では日曜日が礼拝の日となっていった。最初の日曜日の礼拝はどんな状況 だったのだろうか。

①弟子たちはひとつ所に集まっていた。
◎弟子たちの集まりは弱くてみじめな集まりだった。自分たちも殺されることを恐れていた(20:19)。彼らはイエスを喪った悲しみ、イエスを守れなかった不甲斐なさで打ちひしがれていた。
でもそのような集いの中に復活のイエスは現れてくださった。イエスの名で2~3人が集まるところに、イエスも共におられる (マタイ18:20)。この御言が根拠だ。

②トマスはこの集まりに出席していなかった(20:24)。
◎何故一緒に集わなかったのだろうか。イエスに失望していたのかも知れない。あの十字架ですごい業をなさったら、イスラエルはみな信じたであろうに・・・。私達は神の栄光の筋書きを自分で書いてしまう。
◎仲間に失望したのかも知れない。神を見ないで人を見ようとすると失望する。理由はともあれ、集まるところに主はおられる

③第2週目の日曜日
◎今度はトマスも共に集っていた。不信仰なことを言ったトマスにも、復活のイエスは出会ってくださった。私達はいつも信仰深いわけではない。不信仰の時もある。でもイエスの名で集まる。「イエスの名で」とは、イエス様が招集者だ。だからそこにイエスがおられる。

子ロバに乗られた王

2018年3月25日 ヨハネ福音書  12章12~19節

 

①イエス様は期待はずれの王
◎旧約の時代からキリスト (油注がれし者)が来られると預言されていた。「油注がれし者」とは文字通り油を注いで神のご用のために聖別した者、大祭司、王、預言者を意味した。
◎イスラエルの歴史の中でダビデ、ソロモン、マカバイなど登場したが、いずれもキリストではなかった。いつしか、人々は軍事力を持って敵国を倒すキリストを期待するようになった。
◎私たちは自分の都合の良いキリストを期待していないだろうか。空腹を満たすキリストを期待した人々は、「私の肉を食べ血を飲め」といわれたイエスに躓(つまづ)いた。
キリストは十字架でご自分の肉を引き裂き血を流して、私たちの罪の支払いをなしてくださった。罪のゆるしと永遠の命をあたえるためにキリストは来られた。
②イエス様は武装解除するために来られた王
◎ロバの子に乗る とはゼカリヤの預言の成就(ゼカ9:9-10)。キリストは、人々の武装を取り除かれると預言されている。
◎軍馬ではなくロバの子に乗って、兵隊ではなく弟子たちを引き連れてキリストは来られた。丸腰で来られた。平和の王として来られた。
◎日本国憲法第九条は、まさにキリストのように生きることだ。はたして日本国民にそのような覚悟はあるだろうか。そのためには、一人でも多くが真のキリスト者になることだ。
◎キリストは私たちの中から武器を取り除かれる。憎しみという「剣」を打ち返して、神の御言の種をまくために、人の心を耕す「鋤となされる。人を突き刺す「槍」を打ち返して、神の御言の結果である救いを刈り取る 「鎌」とされる (イザヤ2:4)。