まことの礼拝者になろう

2018年2月18日 第二列王記  3章9~12節

只今、音声を編集しております。公開までしばらくお待ちください。

北イスラエルの王ヨラムと、南ユダの王ヨシャパテは連合軍を編成してモアブ討伐のため進軍したが、水不足のため立ち往生。進むことも退くこともできない状況になった。さあ、どうするか。

①ふたりの王の反応は対照的だ。
◎ヨラム王の反応……もう最悪!。神はわれらを見捨てた。悲観的でネガティブな反応。これを「ヨラム的クリスチャン」と呼ぶことにする。
◎ヨシャパテ王の反応……神に祈ろう。神の御心を求めよう。ことが上手く行かなくても、神を信頼してポジティブに反応する。これを「ヨシャパテ的クリスチャン」と呼ぼう。
◎両者の違いはどこから来たのだろうか。

②偶像礼拝が及ぼす影響とは……。
①偶像礼拝者は自分に都合の良いことが進むように祈る。(自分中心)だから、都合の悪いことが起こると、神に見放されたと感じる。願いことばかりして、神が何を願っておられるのかを問わない人々。
②偶像礼拝者は肉体的な必要を最優先する。(肉体中心)だから、一般宗教は人気がある。霊的必要には無関心。

③まことの礼拝者になろう。
◎とはいえ、神は私たちの肉の必要にも配慮なさる。荒野でマナを与えエリヤに食事を整え、5千人の人々の給食を用意なさった。
◎しかしそれは、私たちが霊魂の食物である御言で生きることを学ばせるため。まことのパンであるイエスを知るためだ。
◎さあ、まことの礼拝者になろう。神の御心はそこにあるのだから。

ここで何をしているのか

2018年2月11日 第一列王記  19章1~18節

比嘉正元牧師による説教です。

 

①神は燃え尽きた者に語られる方
◎エリヤはバアルとの信仰的戦いの大勝利の後、燃え尽きてしまった。神は燃え尽きたエリヤに「ここで何をしてるのか」(19:9, 13)と語ってくださる方。私はここ恵み教会で今何をしてるのか。今年何をすべきか?
◎私たちの信仰の歩みは 波に似ている。勝利を味わう時と失敗し穴の中に閉じこもる時がある。神はどちらの場合も良き牧者として導かれる。ヨナを牧する神(ヨナ書4:6)

②神は私たちの問題を直視させる方
◎神は二度「ここで何をしているのか」と質問された。エリヤは二度、「熱心に仕え 私だけが残りました 」と答えた。この認識はエリヤ自身の認識と、決めつけ、こだわりであった。
◎私たちは問題の中にいると、
・自分の思い込みから抜けられず
・自分流の決めつけを持っている
・自分だけがよく解っているとこだわってしよう。
試練とともに脱出の道も備えておられる神は、問題を直視させてくださる方です。

③神は極上の道を知っている方  (19:15 ~ 18)
◎エリヤは、「ここで何をすべきか。」を知った。それは、
・油を注いで、王と預言者を立てること。
・神を愛するものが 7,000人いると知るべきことだった。

この問いには世界中であなた以外には誰も答えられない。
あなたは「ここで何をしているのか」。

それにもかかわらず

2018年1月28日 第一列王記  15章1~5節

 

ソロモン王の評価。その子レハブアムの評価。その子アビヤムの評価。いずれも罪と堕落の歴史だ。

①聖書は私たち罪人の姿を映し出している。
◎罪の歴史を読むのはつらいことだ。聖書は自分の真の姿を映し出す鏡のようだ。ガラス製の鏡は外側の姿を映し出す。レントゲンやMRIは体内を映し出すが罪人の姿までは見えない。
◎永遠の滅びに至る “罪人(つみびと)” という病を知ったら、それを癒されるイエス・キリストのもとに行くのだ。
◎各王の母の名が記されている。時に、アビヤムとアサの母はマアカである。忌むべき出生だ。

②それにもかかわらず、ひとつのともしびが与えられた。
◎呪われた家系、絶望的な境遇。しかし、「それにもかかわらず」の世界が用意されている。それはアサ王の出現、希望の光のこと。アサ王の評価を見よ(15:11~14)。
◎聖書は罪の暗闇で終わらない。”それにもかかわらず” という恵みの世界がひかえている。

③「ダビデに免じて」とは「ダビデとの契約の故に」である。
◎なにゆえに神は、罪にまみれた家系に恵みを施されるのか。それはダビデとの約束の故である(第二サムエル記7:12~16)。その契約は、恵みを取り去らない。罪を犯したら懲らしめられる。王国は堅く立つ。
◎ダビデとの約束の故に(つまりダビデに免じて)、アサ王を起こされた。バビロン捕囚から帰還された。離散の民イスラエルを1948年に復興なさった。神はご自身の約束を守られる真実なお方だ。
◎今や新しい契約の時代。イエス・キリストの故に、神は私たちに恵みを施される。神は真実な方であり、この約束を貫徹なさるのだ。

イエスの御名を置くところ

2018年1月28日 第一列王記  8章27~30節

 

①神は私たちと共に住まわれるお方だ
◎神は遠く離れておいででない。神は人をご自身の働きのパートナーとして創造し、ご自身に似せて創造なさった。だから、共に住まわれるお方だ。
◎逃亡中のヤコブにも、投獄中のヨセフにも、荒野を旅する民にも、神は共に住まわれた。その実際が幕屋(神殿)を通して啓示された。
◎列王記、歴代誌はこの神殿を汚してはならないことを教えている。

②神はご自身の名を尊ばれる
◎神殿は神の御名を置くところだ。時存者なる神は ”天(Sky・Space)”にも ”天の天(Heaven)”にもお入れすることのできない存在。
◎だから、神はご自分の名を置かれた。神の名のあるところに神も共におられる。人が自分の名を尊ぶように、神はそれ以上にご自分の名を尊ばれる。
◎わたしの名で集まるところにわたしも共に居ると約束されたように、御名を讃美するところに神は共におられる。御名によって祈るところに、神は耳も関心も注がれる。

③神の名・・・それは「イエス」
◎旧約聖書に啓示された神の名はYHWH(ヤーウェ)。これを日本語では”主”と翻訳。でも、この名は御使いが紹介した名だ。しかし、神の御子が啓示した名は「イエス」。前述の名よりまさった名だ(へブル1:14)
◎「イエス」という名は、御子が天の父から受け継いだ名だ(ヨハネ17:6、11)。新約の私たちはこのイエスの名を受けて罪をゆるされ、イエスの名によって神の子にされ、イエスの名によって祈るようになった。
◎最高の名だ。この名こそ、神が永遠に耳を傾け関心を注がれる名だ。だから、大胆にイエスの名を讃美し、イエスの名で祈ろう。

主イエスは我が岩

2018年1月14日 第二サムエル記  22章1~3節

サムエル記を終えるに当たってダビデはどのような王であったかを学ぼう。

①ダビデは悔い改める王であった。
◎王の立場や権力をもってすればごまかせることでも、ダビデは神の御前に悔い改めた。軍隊や国の財政がダビデを守ったのではない。悔い改めることで、神がダビデと共におられたからだ。
◎悔い改めは ”最後ののがれの道” である。それは狭い道であるが、広い道は滅びにつながっていると、主イエスはいわれた。

②ダビデは神を畏れる王であった。
◎地上での最高の力を得た王ダビデであったが、神を畏れた。神を畏れた故に悔い改めた。
◎神の罰がくだされないようにと畏れて遠ざかるのは正しい畏れではない。悔い改めて神に近づくのが正しい畏れ。エリコの住民は前者の恐怖で震えたが、ラハブは神を畏れて悔い改めて救いを得た。このラハブがダビデの高祖母にあたる。

③ダビデは讃美する王であった。
◎ダビデは神のことを「我が岩」と讃美した。彼を真に守ったのは宮殿ではなく、荒野の岩であった。むしろ、宮殿でバテシバとの罪を犯し、子育てを誤りアブシャロムの反乱を招いた。
◎ダビデは岩なる神に立ち返り、そこで守られ養われたように、私たちを守り養う岩こそイエス・キリスト。その御身体である教会だ。
◎世の富や地位が私を守るのではない。むしろそこは罪の誘惑がある所。さあ、岩なるキリストに身を寄せよ。

あなたがその人です

2018年1月14日 第二サムエル記  12章1~14節

 

①人は罪を隠そうとする。
◎人類最初の罪であるエデンの園でも、イチジクの葉で身を隠し、木陰に身を隠し、言い訳で身を隠した(創世記3:7-13)。人類は罪を隠すことで問題を解決しようとする。
◎しかし、心には闇が生じ、その闇を根拠にサタンや悪霊は働く。これによって人は苦しむ。ダビデも苦しんだ(詩篇32:3-5)。
②神は罪をあきらかにされる。
◎罪を隠したまま何事もなく行くのが幸福だろうか。そのようにして”うまく”やっている人もいる。しかし、神は隠れたことを明るみに出されるお方だ。あきらかにして悔い改める機会を与えようとなさる。
◎聖書は「最後のさばき」を啓示している。”最後”とは、その後は悔い改める機会が無いという意味だ。
◎神は愛なるお方なので、罪をあきらかにして悔い改めへと導かれる。
③あなたがその人です。
◎聖書の記事は他人事ではない。私のことだ。神の御言は私を写し出す鏡だ。ダビデにも預言者ナタンを通して神の御言が照らされた。「あなたがその人です。」と(12:7)。
◎イエスを知らないと三度否んだペテロの姿。十字架に付けよと叫んだ群衆。「あなたがその人です。」
◎十字架上で罪の故に苦しむイエスの御姿。そこから復活なさったイエスの御姿。「あなたがその人です。」

人生の敵に出会ったとき

2018年1月7日 第一サムエル記  24章1~15節

 

①神の御心を求める。
◎ダビデの部下たちは、敵を倒す絶好の機会だ、これぞ神の御心だと考えた。しかし、ダビデは、「神が油注がれた者に手をかけてはならない」ことが神の御心だと考えた。
◎神の御心は、自分に都合の良いこととは限らない。

②神のなさう分野に踏み込まない。
◎復讐することは神がなさる分野だ(ローマ12:19)。神が背負う荷物だ。
◎復讐心、うらみ、悲しみ、憎しみ・・・これらは人類がかかえ込んできた大きな荷物だ。重荷をおろせと言われた主イエスは、それを背負って十字架で葬られた。

③私のなすべきことは祝福だ。
◎ダビデはサウルに善をもって返した。つまりサウルを祝福した。私たちは世に祝福をもたらすために召されたのだ(Iペテロ3:9)。アブラハムが「祝福の基」であったように、私たちも祝福を発信する基である。

人生のゴリアテに出会ったとき

2017年12月31日 第一サムエル記17章31~49節

 

①今までの恵みを忘れない
◎ダビデは羊に襲いかかる獅子や熊と戦った時、主が助けてくださった恵みを覚えていた。ゴリアテに対しても助けてくださると信じた。
◎悪いことばかりを思い出すのは罪びとの性(さが)だ。主がくださった恵みを思い起こそう。イエスの十字架は恵みの中の恵みだ。

②自分の持っているもので戦う。
◎武器の大きさや数の多さを問題にしがちだが、信仰の問題だ。5つのパンと2匹の魚さえ用いられるイエスの御手の中にあることが重要だ。
◎人生のゴリアテには急ごしらえの物では歯が立たない。日頃から身に付けたもの…。それは小さな事でも、主の御手の中で幾倍にもしてくださる主を信頼しよう。

③これは主の戦いだ。
◎ゴリアテはイスラエルに挑戦しているが、実は主なる神への挑戦だ。
◎アブラハムを祝福する者を神が祝福し、彼を呪う者を神が呪われる。この原則は教会でも同じだ。私たちの戦いは “主の戦い” だ。
◎だから全てのことをイエスの御名によってなすのだ(コロサイ3:17)。
それは、どんな事でもイエス様に隠さない。イエス様とご一緒だ。職場でも学校でも家庭でも。いつもイエスにご一緒していただく事である。