行いによって祝福される

2019年8月18日  ヤコブの手紙   1章 19~25節

◎「そのことを知っている」 の「そのこと」とは、 救いが完成するたあは忍耐を働かせるという「そのこと」 である (1:4、12)。
◎私たちはイエスを信じて救いを受けた。つまり、神の子どもとして新生した。しかし、 神の子どもとして完成していない。そのためには、 忍耐を働かせて成長するのだ。
◎そのことを知っているのだから、御言を聞く (行う)ことを優先すべきだ。語ること、 怒ることは後回しにせよ(1:19)。 怒ることは罪ではない。怒りの源泉は、正義を求めるが、 その正義が歪められていることに対する怒りだ。神は、まさに義の世界を追及し、義を踏みにじることに怒られる方だ。
◎しかし、私たちの怒りは、 自分の(自分にだけ通用する) 義のため怒っている。それは、神の義を完成することにはならない(1:20)。 むしろ、 御言を聞くことを優先せよ。 真正な怒りは神に任せよ。
◎御言を聞き、おこなうことは魂の救いをもたらすとは何か。イエスを信じて救いを受ける。その後、 御言をおこなうことによって救いは完成して行く。つまり、魂(考え、 思考の領域) がキリストに似た者になって行く事だ。
御言を聞いてもおこなわない人は、 自分の姿を鏡に映しておきながら、 その姿を忘れてしまう人のようだ (1:23)。
◎御言は、私の真の姿を映し出す鏡のようだ。「いつも喜べ~」 という御言に、感謝のない不平不満の自分を映し出す。 「受けるより与えるが幸いだ」という御言を通して、 得ようとしている欲深い姿を映し出す。 「あなたは高価で尊い」という御言に、自分の真の価値を映し出すのだ。
◎なのに、御言を行わないなら、その姿を忘れて、ちっとも成長しない。 御言を行うことによって自分の本当の姿を知ろう。 罪人の姿。 しかし神に愛されている姿を見つめつつ、 私たちは自分の考えをなおし、自分の生き方をただして行くのだ。こうして、 完成した者へと成長する。

「聖霊に導かれて」一聖書(ロゴス)に生き、 聖霊(レーマ)と行動する一

2019年8月11日  ガラテヤ人への手紙   5章 16~25節     比嘉正元牧師による説教

朝礼拝

夕礼拝

御言に生きることと聖霊に導かれて生きることは信仰生活の両輪。弟子たちは3年半の御言を学び、聖霊を受けて宣教に入った。 私たちも御言を学び、聖霊に満たされて信仰生活を全うするのだ。

1) イエスは父の約束を待てと言われた
◎イエスは命じられた。 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。…いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
◎イエスは3年半の間、直接みことばを教え、みわざを体験した弟子たちに、 宜教に出ていけではなく (ルカの時系列による)、待ちなさいと言われたのはなぜか。
2) 私たちは助け主「聖霊」 を必要としている
◎それはもう一人の助け主「聖霊」(ヨハネ 14:16)をお与えになるという約束であり、使徒1:4~5の聖霊バプテスマだ。 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」との約束である。(使徒 1:7)
◎それが使徒2章で実現し、それから弟子たちは、文字通り聖霊の力を受けて、迫害の中、世界宣教へと進んでいった。
3)弱い肉なる弟子たちは聖霊に導かれて生きた。ガラテヤ5:16-27
<ペテロの場合>聖霊を受けた後に説教すると2千人が救われた。足のきかない男を癒した。更にその影でも、 だれかにかかるようにするほどになった。(使徒5:15)
<ピリポの場合>使徒 8:26~40
①み使いが「ガザに下る道に出なさい」→彼は立って出かけた。
②御霊が「近寄って、 あの馬車と一緒に行きなさい」→ピリポは走っていくと
③イザヤ書の朗読洗が聞こえたので→ 読んでいることが分かりますかと聞いた
④馬車に乗ってくれと頼まれたので → 乗った
⑤どうか教えてくださいと言われたので→ この聖句から始めて、イエスを宜べ伝えた
⑥水がある所で「洗礼を受けたい」と言われたので →バプテスマを授けた。

御言は私たちを整え、 聖霊は私たちを導く。 御言の著者である聖霊はあなたを導き、あなたを通して生きて働きたいのだ。

信仰のめがねで見る

2019年8月4日  へブル人への手紙11章 1~3節

◎信仰とは何か。 …まだ見ていないことを確信すること (1:1)。 「まだ見ていないこと」とは、自分勝手な思い込みではなく、 神の御言 (約束)が根拠だ。例えば、◇イエスは住む場所を用意しに天に昇り準備ができたら再び来られる。◇朽ちない体に復活する。◇正しい報いがあること等々。
◎見える世界ではなく、見えない神の御言の世界に生きた先輩たち。アベル、エノク、ノア、 アブラハム等々 。 共通していることは、見える世界の本質は「神の御言だ」 と悟ったこと (11:3)。

◎目に見える世界は分子→原子→電子と原子核→陽子と中性子→さらに小さな素粒子から成り立っている。突きつめて行くと、 神の御言という次元の異なるエネルギーによって成り立っている。
◎目に見える現実より、 神の御言を根拠にする生き方こそ確実だ。神の御言という見えない世界にこそ目を注ぐ生き方こそ確実だ。

見える世界は嵐であっても、御言の世界は「嵐よ静まれ」と命じられ大なぎになる世界だ。目に見える世界は5つのパンと2匹の魚しかないが、 イエスはそれを祝福し皆に分け与える世界だ。
◎さあ、御言による世界に目を開かれよう。 それは信仰のめがねで見る世界だ。「めがね」とは物事の本質をきわめる眼力のこと。信仰のめがね…それは、御言でできたレンズを通して現実を見ること
◎百人隊長は中風であるしもべに捕らわれないで、「御言をください」とイエスに求めた。御言が「いやされよ」と命じるならそうなるのだと見た。
◎ペテロはイエスに「水の上を歩いてこい」と命じてください。と御言を求めた。御言があるので歩けた。 御言が見える世界を動かし、御言の世界こそが本当の世界であることを見極めよう。

イエスの血をたずさえて

2019年7月28日  へブル人への手紙10章 19~22節


◎「聖所」 「乗れ幕」とは神殿のこと。神殿は、ふたつの部屋になっていて、手前が聖所、奥の部屋が至聖所。 その間を垂れ幕が仕切っていた。この奥の至聖所は最も聖なるところであり、天を意味していた。天における神との親しい交わりを表現していた。
◎この至聖所には年に一度大祭司だけが入ることが出来た。しかも、罪の代価である動物の犠牲の血を携えて入った。このことは、本物の大祭司によって実現する救いを予表していた。

◎イエス・キリストは動物の血ではなく、ご自分の血を携えて、地上の聖所ではなく天に入って行かれた(9:12)。 これは、 イエス様を信じる私たちも、 イエスの血によって聖所 (天) に入って行くさきがけとなった (10:19)。
◎「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」 (10:20) とあるが、イエスが十字架で死なれた時、神殿で何があったか(マタイ 27:51)。神殿の垂れ幕が「上から下へ」引き裂かれた。つまり、至聖所への道が開かれたのだ。

◎さあ、私たちもイエスに続こう。 イエスの血を携えて天に入って行こう。ところが、その親しい交わりを「邪悪な良心」が妨げる。しかし、イエスの血はその邪悪な良心を清める (22)。
◎人間は神に似せて創造されたので「良心」がある。しかし、 罪の支配の中で良心は歪められている。それを聖書は邪悪な良心と呼ぶ。一方、 「正しい良心」という表現もテモテ書で学んだことを思い出そう。
◎執効な罪の呵責ゆえに過剰な自己卑下をすることになる。そこで、 邪悪な良心は、立派な行いで帳消しにしようとする他者との比較で相対化しようとする忘却しようとする。イエスの血だけがこれを癒し、清める。
◎さあ、大胆にイエスの血によって神に近づこう。天に入って行こう。

安息に入れ

2019年7月14日  へブル人への手紙 4章 1~3節

安息に入る約束とは何か (1節)
◎旧約の人々は奴隷の地(エジプト)を出て、カナンの地(安息の地)に入るとの約束を受けた。しかし人々は入れなかった。
◎だから、この約束は新約の人々(私たち)に残された約束だ。
旧約の場合と新約の場合と状況は同じだ (2節)
◎安息日に入れとの “御言” を聞いたけれど、 旧約の人々はその地を攻め取ろうとしなかった。無理だと考え、神を疑った。
◎新約の私たちも、目前の様々な問題があるので、安息なんて無理だと考えていないか。
旧約の人々はなぜ安息の地に入れなかったのか(2節)
◎神の御言を聞いても信仰によって結びつけなかったからだ。換言すれば、御言が心に入ってこなかったからだ。 種を蒔いても石地のような地では実を結ばないのと同じだ。
◎その結果、人々は「荒野をさまよう民」になってしまった。
荒野をさまようクリスチャンですか、 それとも安息クリスチャンですか
◎どちらのクリスチャンも救われた人です。でも、神の御言を受け入れないので、荒野をさまよってしまうのだ。 不平不満が絶えない人生だ。
◎さあ、心を頑なにしないで、安息に入ろう。「荒野」は通過しなければならないが、 さまよう場所ではない。
御言を信じれば、 安息に入るのです (3節)。
御言は私の心をいやして安息の地にしてくれる (4章12節)
◎御言は私の心を “手術” する。
◎心にある不定愁訴。 ゆるせない心。比較したりうらやむ心。苛々したり怒る心。それは荒野だ。 御言を受け入れ、 御言の考え方に入れ替えてしまう。そこから安息の地は始まって行く。

なぜ人は肉と血を持つ存在なのか

2019年7月7日  へブルへの手紙 2章 5~18節

◎5節の「後の世」 とは神の御国(天国)のこと。それを御使たちではなく、人間に与えるというのだ。 天使たちに任せた方が忠実だし、立派にやるはずなのに………。
◎人間は御使よりも低い存在、であるのに、どうして人間に御国を治めさせようとなさるのだろうか (6~7節)。
神の御子イエスは、人の子としてこられることによって、肉体という弱さを持って生き、苦しみ、 十字架で死に、 そして復活の栄光にまで至ったお方だ(9節)。 ここに、 万物存在の目的が込められていると

神の御子が肉体という弱さを持って世に来るために、神は人間をあえて肉体という弱さの中に創造なさった。つまり、御使よりも低い者とした。だから、神は、人間の弱さを充分にあわれんでくださる。
◎むしろ、聖とする方(イエス・キリスト)も聖とされる者たち (人間) も目的はひとつだ。肉と血という弱さの中で、悪魔に打ち勝つという目的のもとに置かれている。だから、主は私たちを「兄弟だ」「友だ」「愛する花嫁だ」と呼んでくださる (11節)。

◎では、なぜイエスは肉と血をお持ちになったのか。 それは、 ご自分の死によって悪魔を滅ぼすためだ (14節)。
◎さらに、ではなぜ、イエスの死が悪魔を滅ぼすことになるのか。
◎肉体の弱さの究極が死だ。 その死に至るまで、 イエスは神を信頼し謙遜と従順を貫かれた。その従順ゆえに悪魔は滅びた肉体の弱さがあるからこそ、神への従順は輝きを増す。
◎イエスも私たちも、同じ血と肉という弱さを持って神に従順し、 悪魔を減ぼすために労苦している。 ゆえに、 私たちを友と呼んでくださる。

敬虔の奥義~その2

2019年6月30日  ピレモンへの手紙    10~12節

 
◎敬虔の奥義とは「見えない信仰を生活に現す」こと。パウロはピレモンとオネシモに対して、まさに敬度そのものを見せてくれた。
◎ピレモンは家族あげて主に仕えていた。その家の奴隷オネシモは金品を盗んで逃亡後、幽閉中のパウロのもとに行き着いた。そこでオネシモは新生し、名の如く役に立つ者(オネシモ)となっていった。

①オネシモは自分を見出してくれる人と出会った。
◎人の目には役に立たない者であっても、神の目には高価で尊い。自分の真価を見出してくれる人と出会えることは幸い。
◎神がイスラエルの王を選ばれる時、エッサイの8人の息子たちをご覧になった。「人は外の顔かたちを見るが、主は心を見る」 と言われ、 ダビデを選ばれた。
◎神は、人が見るところとは異なる。神は、 罪を悔いる心があるかをご覧になる。どんな有能な人物でも、罪を悔い悲しむ心がなければ、役に立つ者とはなれない。
②パウロはオネシモの保証人となってくれた。
◎18~19節の言葉は、 まさイエス様が私について後ろ盾となってくださる御言だ。返済できない大きな罪を、イエス様は「わたしが支払う」と言ってくださって、 私を世に遣わしてくださった。
◎かつてのパウロはキリスト教の迫害者。しかし、ダマスコ途上で回心。そのパウロを保証人になってくれたアナニヤ、バルナバの存在を忘れてはならない。

このようにして送り返されたオネシモは、パウロの「心そのものだ」と言われている。私たちも、イエス·キリストの「心そのもの」だと言って世に遣わされている。キリストの心を表そう。 それこそ「敬虔の奥義」だ。そして、「私の心そのものだ」と言える子や後輩を育てよう。

敬虔の奥義

2019年6月23日  テモテへの第一の手紙 4章7~9節

 
◎神の御言よりも人間の言葉(実りのない議論・空想話)が幅を利かせる時代になり、クリスチャンが真理から反れて、信仰の破船にあっていた。そこで、「そのまま受け入れるに値する御言」に立ち帰れと命令している。

◎今日の御言は 「敬虔の為に鍛錬せよ」と。「敬虔」 とは何か。見えない信仰を、生き様を通して見える姿に現すことだ。「信じる」という心の中の出来事を、見える形に現すこと……それが敬虔だ。頭だけの信仰、 理屈だけの信仰ではない。

敬虔は奥義だと語っている(3:16)。とても大切なことだ。 イエス様が肉体をとって来られて、神の義が現れ、それは天使にも人々にも見ることができ、それは栄光となった……。 これが敬虔の奥義。
◎イエス様が肉体をとって来られたので、見えない神を見ることができた。見えない神の愛を、神の義を、神の栄光を、私たちは見たのだ。この肉体は、見えない神を現すための聖なる器だ。
◎キリストがなさったと同じように、私たちも見えない神、見えない御言、見えないキリストを世に現すためにこの体が備えられている。 ただ、心に信じているだけでなく、見える形に現そう。 それが敬虔の奥義。 この敬虔を疎かにして、信仰の破船に遭うのだ。

◎では敬虔の為の訓練とは何か。 ①クリスチャンの旗印を明確にする。信じていることを隠さない。 ②祈ること (声に出して)。祈りとは主役をイエス様に明け渡すことだ。祈らないでいると、 自分が主役になって行く。それだけイエス様の出番を塞いでいる。 ③御言を実践する。 見えない御言が見える姿に表れる。イエス様も「御言が肉体となって来られた方」だ。