悔いし砕けし霊魂

2014年7月20日 礼拝説教 詩篇51

 

◎この詩篇は、ダビデ王がバテシバとの姦淫及びその夫ウリヤを戦場の最前線に追いやり戦死させた罪を悔い改めたときのもの。
◎ダビデは罪を隠そうとしたが、神の目には隠れることができなかった。神は、隠れておることを明るみ出される。それは、神の御光のもとできよめ、救うためである。

◎罪は表面的なものではなく、根っ子の問題だ。人は生まれながら罪人として母の胎に宿るのだと指摘している(51:5)。人の肉の力では制御できないのが罪だ。
◎ダビデは「新しい霊」を求めた。これは聖霊のこと。預言者エゼキエルも、新約で実現する聖霊の内住を預言した。「聖霊は石の心を取り除いて、肉の心を与えうるのだ」と。「石の心」とは頑固な心で、「神のいのちから遠ざかり」「道徳的に無感覚になり」「好色に身をまかせる」「むなしい心で歩む」「知性が暗くなる」と指摘している(エペソ4:17-19)。

◎イスラエルの民は頑な心の民だと度々指摘されている。ダビデは自分の心にその性質を見抜いていた。後のイスラエルの民も、奇蹟を体験しながらも不信仰であった。神の御子が来られても、なおもしるしを見せよと頑固だった。
◎このような頑な心を、神は砕こうとなさる。罪を通して、失敗を通して、私たちの高慢によって固くなった霊魂を砕かれる。ダビデもそうだった。こうして、己の弱さに気づき、砕かれし霊魂を持つように聖霊は導かれる。

◎神は失敗のない人を求めておられるのではない。悔いし砕けし魂を求めておられる(51:17)。

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