神の子どもとしての訓練    

2014年8月31日 ヘブル人への手紙12章1~11節

神の約束の世界を信仰のメガネをかけて走り抜いた先輩たち。それが11章に記されていた。その先輩たちから、今や21世紀の私たちがバトンを引き継いで走っている。その走りを妨げる要因が二つある(12:1)。

①いっさいの重荷
◎とはいえ、身軽に気楽に行こうというのとはニュアンスが違う。
◎私たちは天国に向かう旅人であり、地上では寄留者だ。だから、この地上につなぎ止めようとする重荷は捨てる。
◎地上の生活を軽んじるのではない。しかし執着するのではない。愛着と執着を区別しよう。
◎捨て去るべき重荷は……、(1)どうしても追わなければならない重荷だろうか。(2)自分が負える重荷だろうか。(3)天国までもって行ける荷物だろうか。
②まとわりつく罪
◎ヒルが吸い付いて血を吸い取るように、罪はまとわりついて、私たちの霊的いのちを吸い取ってしまう。だから、かなぐり捨てよと命じている。その戦いは血を流すほどのものだと。
◎神は、この罪と闘って勝利を得るように、私たちを訓練なさる。それは丁度、親が子を訓練するのと同じだと。
◎神は私たちの父だ。この宣言は旧約に慣れ親しんだヘブル人には驚きの宣言。子どもとしての訓練がある。それは、きよめられ、平安な義の実を結ぶためだと。
◎「富を主人とする罪」「自己正義に立つという罪」に勝利するために、私もこらしめ(訓練)を受けた。逃げたい気持ちだった。でも、それは神が私を神の子どもとして扱われたのだ。
◎罪と戦い勝利するために、父の訓練を受け止めよう。

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