主イエスは我が岩

2018年1月14日 第二サムエル記  22章1~3節

サムエル記を終えるに当たってダビデはどのような王であったかを学ぼう。

①ダビデは悔い改める王であった。
◎王の立場や権力をもってすればごまかせることでも、ダビデは神の御前に悔い改めた。軍隊や国の財政がダビデを守ったのではない。悔い改めることで、神がダビデと共におられたからだ。
◎悔い改めは ”最後ののがれの道” である。それは狭い道であるが、広い道は滅びにつながっていると、主イエスはいわれた。

②ダビデは神を畏れる王であった。
◎地上での最高の力を得た王ダビデであったが、神を畏れた。神を畏れた故に悔い改めた。
◎神の罰がくだされないようにと畏れて遠ざかるのは正しい畏れではない。悔い改めて神に近づくのが正しい畏れ。エリコの住民は前者の恐怖で震えたが、ラハブは神を畏れて悔い改めて救いを得た。このラハブがダビデの高祖母にあたる。

③ダビデは讃美する王であった。
◎ダビデは神のことを「我が岩」と讃美した。彼を真に守ったのは宮殿ではなく、荒野の岩であった。むしろ、宮殿でバテシバとの罪を犯し、子育てを誤りアブシャロムの反乱を招いた。
◎ダビデは岩なる神に立ち返り、そこで守られ養われたように、私たちを守り養う岩こそイエス・キリスト。その御身体である教会だ。
◎世の富や地位が私を守るのではない。むしろそこは罪の誘惑がある所。さあ、岩なるキリストに身を寄せよ。

あなたがその人です

2018年1月14日 第二サムエル記  12章1~14節

 

①人は罪を隠そうとする。
◎人類最初の罪であるエデンの園でも、イチジクの葉で身を隠し、木陰に身を隠し、言い訳で身を隠した(創世記3:7-13)。人類は罪を隠すことで問題を解決しようとする。
◎しかし、心には闇が生じ、その闇を根拠にサタンや悪霊は働く。これによって人は苦しむ。ダビデも苦しんだ(詩篇32:3-5)。
②神は罪をあきらかにされる。
◎罪を隠したまま何事もなく行くのが幸福だろうか。そのようにして”うまく”やっている人もいる。しかし、神は隠れたことを明るみに出されるお方だ。あきらかにして悔い改める機会を与えようとなさる。
◎聖書は「最後のさばき」を啓示している。”最後”とは、その後は悔い改める機会が無いという意味だ。
◎神は愛なるお方なので、罪をあきらかにして悔い改めへと導かれる。
③あなたがその人です。
◎聖書の記事は他人事ではない。私のことだ。神の御言は私を写し出す鏡だ。ダビデにも預言者ナタンを通して神の御言が照らされた。「あなたがその人です。」と(12:7)。
◎イエスを知らないと三度否んだペテロの姿。十字架に付けよと叫んだ群衆。「あなたがその人です。」
◎十字架上で罪の故に苦しむイエスの御姿。そこから復活なさったイエスの御姿。「あなたがその人です。」

人生の敵に出会ったとき

2018年1月7日 第一サムエル記  24章1~15節

 

①神の御心を求める。
◎ダビデの部下たちは、敵を倒す絶好の機会だ、これぞ神の御心だと考えた。しかし、ダビデは、「神が油注がれた者に手をかけてはならない」ことが神の御心だと考えた。
◎神の御心は、自分に都合の良いこととは限らない。

②神のなさう分野に踏み込まない。
◎復讐することは神がなさる分野だ(ローマ12:19)。神が背負う荷物だ。
◎復讐心、うらみ、悲しみ、憎しみ・・・これらは人類がかかえ込んできた大きな荷物だ。重荷をおろせと言われた主イエスは、それを背負って十字架で葬られた。

③私のなすべきことは祝福だ。
◎ダビデはサウルに善をもって返した。つまりサウルを祝福した。私たちは世に祝福をもたらすために召されたのだ(Iペテロ3:9)。アブラハムが「祝福の基」であったように、私たちも祝福を発信する基である。

人生のゴリアテに出会ったとき

2017年12月31日 第一サムエル記17章31~49節

 

①今までの恵みを忘れない
◎ダビデは羊に襲いかかる獅子や熊と戦った時、主が助けてくださった恵みを覚えていた。ゴリアテに対しても助けてくださると信じた。
◎悪いことばかりを思い出すのは罪びとの性(さが)だ。主がくださった恵みを思い起こそう。イエスの十字架は恵みの中の恵みだ。

②自分の持っているもので戦う。
◎武器の大きさや数の多さを問題にしがちだが、信仰の問題だ。5つのパンと2匹の魚さえ用いられるイエスの御手の中にあることが重要だ。
◎人生のゴリアテには急ごしらえの物では歯が立たない。日頃から身に付けたもの…。それは小さな事でも、主の御手の中で幾倍にもしてくださる主を信頼しよう。

③これは主の戦いだ。
◎ゴリアテはイスラエルに挑戦しているが、実は主なる神への挑戦だ。
◎アブラハムを祝福する者を神が祝福し、彼を呪う者を神が呪われる。この原則は教会でも同じだ。私たちの戦いは “主の戦い” だ。
◎だから全てのことをイエスの御名によってなすのだ(コロサイ3:17)。
それは、どんな事でもイエス様に隠さない。イエス様とご一緒だ。職場でも学校でも家庭でも。いつもイエスにご一緒していただく事である。