子ロバに乗られた王

2018年3月25日 ヨハネ福音書  12章12~19節

 

①イエス様は期待はずれの王
◎旧約の時代からキリスト (油注がれし者)が来られると預言されていた。「油注がれし者」とは文字通り油を注いで神のご用のために聖別した者、大祭司、王、預言者を意味した。
◎イスラエルの歴史の中でダビデ、ソロモン、マカバイなど登場したが、いずれもキリストではなかった。いつしか、人々は軍事力を持って敵国を倒すキリストを期待するようになった。
◎私たちは自分の都合の良いキリストを期待していないだろうか。空腹を満たすキリストを期待した人々は、「私の肉を食べ血を飲め」といわれたイエスに躓(つまづ)いた。
キリストは十字架でご自分の肉を引き裂き血を流して、私たちの罪の支払いをなしてくださった。罪のゆるしと永遠の命をあたえるためにキリストは来られた。
②イエス様は武装解除するために来られた王
◎ロバの子に乗る とはゼカリヤの預言の成就(ゼカ9:9-10)。キリストは、人々の武装を取り除かれると預言されている。
◎軍馬ではなくロバの子に乗って、兵隊ではなく弟子たちを引き連れてキリストは来られた。丸腰で来られた。平和の王として来られた。
◎日本国憲法第九条は、まさにキリストのように生きることだ。はたして日本国民にそのような覚悟はあるだろうか。そのためには、一人でも多くが真のキリスト者になることだ。
◎キリストは私たちの中から武器を取り除かれる。憎しみという「剣」を打ち返して、神の御言の種をまくために、人の心を耕す「鋤となされる。人を突き刺す「槍」を打ち返して、神の御言の結果である救いを刈り取る 「鎌」とされる (イザヤ2:4)。

新しく生まれなければ

2018年3月18日 ヨハネ福音書  3章1~15節

 

◎ニコデモの訪問は夜であった。最高の学問と地位を得たニコデモでさえも、照らすことの出来ない「夜」があった。イエスにあってニコデモにないもの、それは「神が共に居られる」という体験。イエスはその条件として「新しく生まれなければ」と言われた。神の国に入るとは、未来だけのことではない。神の国を体験すること。

◎「新しく生まれる」とは、どういうことか。地上の「何か」によって新しいものは何ひとつない(伝道1:9-10)。「肉から生まれるものは肉だ」。人間的な努力も、血筋も、新しく生まれさせることは出来ない(ヨハネ1:13)。

◎「水と御霊によって」新しく生まれるのだ(ヨハネ3:5)。「水」とは御言のこと。御言と聖霊の働きによって、霊的に新生することを言われた。私たちの「霊」が新しく生まれるのだ。それは、神の子どもとして新しく生まれたのだ。神の子どもの「いのち」を持っているのだ。

◎「霊」は「風」と同様に見えない。でも、風は目に見える変化をもたらすように、霊が生きると目に見えて変化がある。どんな変化か。
①新しく生まれた「私・霊魂」は、神の御言を慕うようになる。
②新しく生まれた「私・霊魂」は、神を父と呼ぶようになる。
③新しく生まれた「私・霊魂」は、葛藤し、うめくようになる。

聖書に立ち還る

2018年3月11日 第二列王記  23章21~27節

 

①ヨシヤ王は暗闇に輝く世の光となった
◎ヨシヤ王は多難な時代に王となった。父アモン、父祖マナセは国に偶像礼拝を積極的に取り入れた王。父祖マナセの時代は、南ユダの暗黒時代と称されている。
◎世の力はまことの礼拝から引き離し、偶像礼拝へと向かわせる。なぜなら世の価値観は「人間中心」が基本だからだ。
◎かたや「主の祈り」の前半にあるように、キリスト信仰は「神中心」が基本。「人間中心」と「神中心」は相容れない。「肉は御霊に敵対する」「世はあなた方を憎む」と言われた通りだ。
ヨシヤ王の努力にもかかわらず、神は既に南ユダを滅ぼすと決めておられた。それでも、ヨシヤは神への真実を尽くした。世の光として生きた。世は滅びに向かっているが、私たちは希望の光として信仰を灯し続ける使命がある。

②ヨシヤ王は聖書に立ち還った
◎ヨシヤの改革は聖書に立ち還る運動だった。聖書を通して、自国が滅びに向かっていると分かった。偶像礼拝が罪だと分かった。
◎聖書が基準だ。聖書を基準にヨシヤは宗教改革を行った。

①偶像を取り除いた。我々にも偶像はないか。神の忌み嫌われる魔術、占いなどはないか。エペソ教会では銀5万相当の魔術本が焼却された。
②まことの礼拝の回復。久々の過越祭。過越祭はイスラエルの原点。アイデンティティ-だ。なのにそれは数百年も行われていなかった。新約のそれは「聖餐式」。主の死と復活を覚える礼拝のこと。

見えるようにしてください

2018年3月4日 第二列王記  6章8~19節

 

イスラエルに敵対するアラム軍(スリア軍)の動向は、預言者エリシャによって告げられ、イスラエルは守られていた。
①神の目には隠すことができない。
◎このことを知る時、私たちは神の御前に正直に歩むことができる。
神の視線(眼差し) を感じて生きることが「光の中を歩む」ことだ。
◎歴代の王たちは “主の目” にどうであったかが記されている。人の目ではなく、神の目を意識せよ。

アラム軍はエリシャを殺すために町を完全包囲した。エリシャの召使いには絶体絶命に思えた。肉眼で見ることが全てだったからだ。
②肉眼で見える範囲はわずかだ。
◎肉眼が見ている範囲はわずかだ。紫と赤の間だけ。
◎肉眼という制限を取り除いたら、神のこと、天国のことなどよく見えるはずだ。今、それが見えないのは、私たちが神への信頼と愛を学ぶためだ。神を信頼すること、神を愛すること・・・これが信仰だ。

エリシャは召使いの目が見えるようにと祈った。すると、現実を取りまく天の軍勢が見えた。
③信仰のメガネをかけよう
◎「目が開かれる」とは「信仰」というメガネをかけて現実を見ることだ。そのメガネはガラスではなく、神の御言でできている。このメガネを通して見る時、見えない世界が見えてくる。
◎駄目な人間だとか存在価値が無いなどと、悪魔は人の目を曇らせる。
死んだら絶望だと、悪魔は人の目を見えなくさせている。しかし、御言は「高価で尊い」と言い、「終わりの日によみがえる」と見せてくれる。