原因から目的へ

2018年4月15日 ヨハネ福音書  9章1~3節

 

①弟子たちは原因を問うた
◎生まれつき盲人の男が盲目であるのは誰のせいなのかと問うた。原因を問うたのだ。原因を解決して前を向くはずが、往々にして「後ろ向き」の生き方をしてしまう。原因探し、犯人捜しは迷路に迷い込む。
◎聖書は「前を向け」と命じている。前を向けないのは「ゆるし」がないからだ。
◎聖書によれば原因は明確だ。それは罪の結果であり、罪の結果である死が我々を支配しているからだ。

②イエス様は目的を示された
◎原因である罪と死はイエスが十字架で負われた。そして、原因ではなく目的を示された。目的を示して、私たちの目を前に向けさせられた。その「目的」とは、神の御業が現れるため。神の栄光が現れるためだ。
◎そもそも、原因である罪を人間が犯すことは、神の想定内。神は、人間を御使よりも低く(弱く)創造なさった。それは、罪を犯す弱さだ。神は、人間が罪を犯したので慌てて救いの計画を立てられたのではない。
◎あなた方は今宵わたしにつまずく……と、弟子たちの躓きをご存知であった。つまり、人が罪人であることをご存知の上で、私たちを愛してくださったのだ。それは、人間が失敗のない完璧な存在となる為ではなく、罪という弱さ故に神を愛し神を礼拝する者となるためだ。
◎盲人であった男は、肉眼が見えるようになっただけでない。ユダヤ社会から追放されてもイエスを信じて礼拝した(9:34-38),霊の目が見えるようになったからこそだ。
◎これこそ御業だ。これこそ栄光だ。私が罪人であるのは、神の栄光が現れる為なのだ。だから、神のゆるしを得て、神を愛する者になろう。

イエスさまは世の光

2018年4月15日 ヨハネ福音書  8章12節

 

①光は暗闇を照らす。
◎神は昼と夜を創造された。聖書の一日は「夕となり朝となった」。光のある朝で終わっていることに注目しよう。
◎人類が作り出した「光」。ロウソクの灯。電気の光。科学の光もある。神が創造なさった光もある。でも、いずれも照らす範囲には限界がある。罪と死の世界を照らすことが出来ない。

②本物の光が来た。それは神のひとり子としての「栄光」。
◎それを照らすのは神ご自身の光。聖書はそれを「栄光」とよぶ。神の御子イエスはその栄光を世に現された。旧約時代には律法によって、罪の世界を照らされたが、それはひとり子の栄光から比べるなら、わずかな光であった。
◎ひとり子としての栄光は、罪と死の世界まであばき出すので、悪霊が出て行き、悪魔(サタン)の罪が裁かれ、私たちは救いを受ける。
◎姦淫の婦人は律法の光によれば死を宣告され、御子の光によれば救いを宣告される。

③闇の中を歩くことがない。
◎失望と落胆に押しつぶされているか。それは闇の中を歩んでいる。神の御子の栄光(御言の光)で照らされる。外なる人で落胆しない。日々新たにされる内なる人が照らされる。
◎恐れが支配しているか。しかし、霊魂まで滅ぼすことの出来ない者どもを恐れるなとの御言に照らされる時、恐れという闇は消滅する。
◎憎しみや恨みに支配されているか。復讐するのはわたしだ、といわれる御言は、自分が神となって復讐しようとしている己から自由にさせる。

いのちのパン

2018年4月8日 ヨハネ福音書  6章52~66節

説教を楽しみにしてくださっていた方には大変申し訳ございません。録音機のトラブルにより今週の音声データを公開することができません。お詫びして、説教の要約を下記にてお伝えいたします。

◎イエス様はご自分を天からくだってきたいのちのパンと称された。多くの人々は、霊的な事柄に目が閉ざされていて、肉体の空腹を満たすことに関心があった。
◎肉体のいのちが最高の値打ちだと考える人々は、長生きで、健康で、五体満足であることが祝福と考える。そのようないのちは、数値でしか測れない程度のいのちだ。イエスのいのちはそれをはるかに超える。
◎短い寿命の人でも、障がいをもっている人でも、他者に希望や恵みを分かち合う人がいる。分けても減らないいのちだ。5つのパンと2匹の魚のように、人々に分けても減るどころか増えるいのちのことだ。
◎人に分けたら減ってしまうように思うのは、肉体のいのちしか知らないからだ。だから、イエス様は「わたしを食べて、わたしの持っているいのちを受けよ」と言われた。
◎旧約聖書に記録された天からのマナ(パン)は、一時的に肉体の空腹を満たしたに過ぎない。しかし、今や本当のパンが……神の御言が人となって来られたイエスが降ってこられた。このお方を食べる(神の御言を受ける)ものは永遠のいのちを持つのだ。
◎自分は肉体的な存在であると同時に、霊的存在であることを知ろう。パンだけで生きるのではなく、神の御言(いのちのパンであるイエス様)を食べて生きる者であることを知ろう。
◎永遠のいのち・・・それは、私・霊魂を生かす。わが内なる人が生きるので、この肉体も活かされる。プラトンの「霊肉二元論」ではない。この肉体は、神の聖なることに、神の義と愛を現すために用いられる。「体を生きた聖なるそなえものとして神に献げる。これこそ霊的な礼拝である」(ローマ12:2)。

世界で最初の復活礼拝

2018年4月1日 ヨハネ福音書  20章24~29節

 

イエス様の復活は週の初めの日(日曜日)であった。このことから、キリスト教会では日曜日が礼拝の日となっていった。最初の日曜日の礼拝はどんな状況 だったのだろうか。

①弟子たちはひとつ所に集まっていた。
◎弟子たちの集まりは弱くてみじめな集まりだった。自分たちも殺されることを恐れていた(20:19)。彼らはイエスを喪った悲しみ、イエスを守れなかった不甲斐なさで打ちひしがれていた。
でもそのような集いの中に復活のイエスは現れてくださった。イエスの名で2~3人が集まるところに、イエスも共におられる (マタイ18:20)。この御言が根拠だ。

②トマスはこの集まりに出席していなかった(20:24)。
◎何故一緒に集わなかったのだろうか。イエスに失望していたのかも知れない。あの十字架ですごい業をなさったら、イスラエルはみな信じたであろうに・・・。私達は神の栄光の筋書きを自分で書いてしまう。
◎仲間に失望したのかも知れない。神を見ないで人を見ようとすると失望する。理由はともあれ、集まるところに主はおられる

③第2週目の日曜日
◎今度はトマスも共に集っていた。不信仰なことを言ったトマスにも、復活のイエスは出会ってくださった。私達はいつも信仰深いわけではない。不信仰の時もある。でもイエスの名で集まる。「イエスの名で」とは、イエス様が招集者だ。だからそこにイエスがおられる。