仕える者になりなさい

2019年3月10日 エレミヤ書42章7~12節


◎バビロン捕囚はユダヤ民族にとって神の特別な訓練だった。罪を悔い改め、きよめられるためであり、また、そこで異教の人々に「仕える者になる」ことが御心だった。

◎その御心は、捕囚にならずに残された人々にとっても同じであった。

◎ユダヤの実権を掌握したヨハナンはバビロンに仕えることを良しとせず、エジプト亡命を決断した(41:17-18)。彼はエレミヤに、それが神の御心にかなっているかと尋ねた(42:3)。ヨハナンの心は既に決まっていた。ただ、自分の決断を承認してくれる御言を期待したのだ。ところが、逆の答が返って来るや彼は怒った(43:1-3)。
◎私たちは神の御心を求めて悩む。少なくとも確実な御心は、イエスを信じて救いを得ること (ヨハネ6:39-40)。そして、たちがきよくなることは確かに御心だ(1テサロニケ4:3)。

◎そして、今日の御言が示すように「仕える者になる」ことは神の御心だ。神はユダヤ人をバビロンの手の中で「仕える者になる」という訓練をなさったように、新約の民にも「仕えよ」と命じておられる。
◎「仕える者になる」とは言いかえれば「しもべになる」こと。これは天国に行くまでの必須科目。ヨハナンのように逃げてはならない。

◎イエスの弟子たちが「信仰を増してください」とイエスに願った。それに対する主のお応えは「しもべになりなさい」であった(ルカ17:5-10)。「ふつつかなしもべです。なすべきことをしたに過ぎません」。このような神への応答こそが、信仰が増し加わった者の姿だと教えられた。

新しい契約を結ぶ

2019年3月3日 エレミヤ書 31章31~34節


①新しい契約を結ぶ日が来る。(3:31)
◎新しい契約は、主イエスが来られ、杯をとって「これはわたしの血による新しい契約だ」と宣言されたことで結ばれた。
◎以前の契約(旧約) とはちがう。旧約は十戒命。人はこれを行うことができなかった。なぜなら人間は罪人だから。なぜなら、律法は外側からの力なので限界がある。
◎罪人の限界を知って新しい契約を求める。「主イエスよ来てください」と求めるのだ。

②律法を心の板に書き記す。(31:33)
◎昔は石の板に神の指できざまれたように、新約では神の聖霊が心に御言をきざまれる。
◎御言が私の心になり、考えになり、生き方になるので、内側からの力で生きることができる。もはや律法という外側の力で嫌々ながらするのではなく、心から神に従うのだ。文字は人を殺し、霊は人を生かすのだ。
◎「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい」という御言は律法ではない。聖霊が私の心にきざんでくださっている。だから、その命令は重荷とはならない (1ヨハネ 5:3)。
◎神を愛する愛があるので、主イエスだけを礼拝し偶像を拝みたいと思わない。内に愛があるので、殺したくない姦淫しない……と思うのだ。

③私たちの罪を二度と思い出さない。(3:34)
◎主イエスが十字架で血を流し、私たちの罪の支払いを “完全に” 支払ってくださった。十字架上の最後の言葉「完了した」とは、「完済した」の意味。罪の支払いを完済したとの意味。

将来と希望を与える計画

2019年2月24日 エレミヤ書 29章1~14節

①バビロンの地で定住し、そこで増え広がれ。減ってはならない。(29:54)
◎捕囚は悲惨な出来事だった。しかし、神はそのような境遇の中でも「生きよ」「増えよ」「減ってはならない」と言われる。現代の私たちには、「信仰を増やせ」「減らすな」と。
◎サタンによってふるわれたペテロにも、「信仰がなくならないように」とイエスは祈られた。ここに神の目的がある。

②連れて行かれた所の繁栄を祈れ。(29:7)
◎自分を苦しめる人々の繁栄(祝福)を祈る。悔しくても、敵対する者の祝福を祈れ。それが、自分自身の祝福になるのだ。あなたの職場、家庭、地域の不満もあるだろうが祝福を祈ろう。
◎祝福の場所は、別なところにあるのではない。天国はあそこにあるというものではない。あなたがたのただ中にある。その地の祝福を祈るそのただ中にある。民はバビロンの地で、「シオンへの大路がある」ことを発見して大いに賛美した(詩篇84:5)。

③神の計画は災いではなく平安。将来と希望の計画だ。(29:11)
◎神はバビロン捕囚を通して民を訓練された。それは滅ぼすためではなく、彼らをきよめ平安な義の実を結ばせるという計画だった。
◎異教の地で主を礼拝することは困難なことだった。心を尽くして主に祈り、主を求めなければならないようにされた(29:13)。それは、心を尽くして神を愛する民を得るという計画だった。異教の国・日本でクリスチャンと生きる我々も同じだ。
◎人間には災いの計画に見えても、神には「悔いし砕けし魂」「まことの礼拝者」を得るという、壮大な希望と将来の計画だ。

いのちの道と死の道

2019年2月10日 エレミヤ書 21章1~10節


◎バビロン軍に包囲されるも、人々は神の都エルサレムが滅びるはずがないと信じていた。かつて、アッシリヤ軍に勝利できたように、今回も神は勝利させてくださるに違いないと。
◎自分の都合の良いシナリオを描き、そこに神の御心があると信じ込んでいないだろうか。順調であったり、都合良く進むことが神の御心、神の祝福だと思い込んでいないだろうか。
◎神の御心は、私たちの「小さな思考」をはるかに超えて大きく深い。私たちはただ、「主の御心がなりますように」と祈り求めて生きる。そして、求める者に「良いものを」くださらないことがあろうかとい われる神の「良きもの」として現実を受け取り信頼するのだ。

◎預言者エレミヤは「バビロンに降伏してバビロンに仕えよ」と語った。これは狭い門だ。だれもが通りたがらない。バビロンの奴隷になるなど屈辱的な道だが、それがいのちの道だと語った。
◎かたや、人々は徹底抗戦。ユダヤ人の誇り (肉の誇り)にかけて戦うべきだ。人々は後者の道に熱狂し殺到した。それは広い門であり滅びの道だ。

◎バビロン軍の背後には神の御手がある (21:5)。すなわち、バビロンに屈するとは、神に降伏し悔い改めることを意味する。そこにこそ、いのちの道があるのだ。なのに、頑固に抵抗するのか。強情という名の城に籠城して神と戦い続けるなら、それは滅びの道だ。
◎奴隷となってバビロンに連行されたエホヤキン王(当時18才)は、バビロンで悔い改めた。そして奇跡的に牢獄ら解放され、子孫を残した。その子孫ゼルバベルが帰還民の総督となって戻ってきた。こうしていのちを得た。
いのちを得るために「悔い改め」という狭い門をくぐろう。