信仰のめがねで見る

2019年8月4日  へブル人への手紙11章 1~3節

◎信仰とは何か。 …まだ見ていないことを確信すること (1:1)。 「まだ見ていないこと」とは、自分勝手な思い込みではなく、 神の御言 (約束)が根拠だ。例えば、◇イエスは住む場所を用意しに天に昇り準備ができたら再び来られる。◇朽ちない体に復活する。◇正しい報いがあること等々。
◎見える世界ではなく、見えない神の御言の世界に生きた先輩たち。アベル、エノク、ノア、 アブラハム等々 。 共通していることは、見える世界の本質は「神の御言だ」 と悟ったこと (11:3)。

◎目に見える世界は分子→原子→電子と原子核→陽子と中性子→さらに小さな素粒子から成り立っている。突きつめて行くと、 神の御言という次元の異なるエネルギーによって成り立っている。
◎目に見える現実より、 神の御言を根拠にする生き方こそ確実だ。神の御言という見えない世界にこそ目を注ぐ生き方こそ確実だ。

見える世界は嵐であっても、御言の世界は「嵐よ静まれ」と命じられ大なぎになる世界だ。目に見える世界は5つのパンと2匹の魚しかないが、 イエスはそれを祝福し皆に分け与える世界だ。
◎さあ、御言による世界に目を開かれよう。 それは信仰のめがねで見る世界だ。「めがね」とは物事の本質をきわめる眼力のこと。信仰のめがね…それは、御言でできたレンズを通して現実を見ること
◎百人隊長は中風であるしもべに捕らわれないで、「御言をください」とイエスに求めた。御言が「いやされよ」と命じるならそうなるのだと見た。
◎ペテロはイエスに「水の上を歩いてこい」と命じてください。と御言を求めた。御言があるので歩けた。 御言が見える世界を動かし、御言の世界こそが本当の世界であることを見極めよう。

イエスの血をたずさえて

2019年7月28日  へブル人への手紙10章 19~22節


◎「聖所」 「乗れ幕」とは神殿のこと。神殿は、ふたつの部屋になっていて、手前が聖所、奥の部屋が至聖所。 その間を垂れ幕が仕切っていた。この奥の至聖所は最も聖なるところであり、天を意味していた。天における神との親しい交わりを表現していた。
◎この至聖所には年に一度大祭司だけが入ることが出来た。しかも、罪の代価である動物の犠牲の血を携えて入った。このことは、本物の大祭司によって実現する救いを予表していた。

◎イエス・キリストは動物の血ではなく、ご自分の血を携えて、地上の聖所ではなく天に入って行かれた(9:12)。 これは、 イエス様を信じる私たちも、 イエスの血によって聖所 (天) に入って行くさきがけとなった (10:19)。
◎「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」 (10:20) とあるが、イエスが十字架で死なれた時、神殿で何があったか(マタイ 27:51)。神殿の垂れ幕が「上から下へ」引き裂かれた。つまり、至聖所への道が開かれたのだ。

◎さあ、私たちもイエスに続こう。 イエスの血を携えて天に入って行こう。ところが、その親しい交わりを「邪悪な良心」が妨げる。しかし、イエスの血はその邪悪な良心を清める (22)。
◎人間は神に似せて創造されたので「良心」がある。しかし、 罪の支配の中で良心は歪められている。それを聖書は邪悪な良心と呼ぶ。一方、 「正しい良心」という表現もテモテ書で学んだことを思い出そう。
◎執効な罪の呵責ゆえに過剰な自己卑下をすることになる。そこで、 邪悪な良心は、立派な行いで帳消しにしようとする他者との比較で相対化しようとする忘却しようとする。イエスの血だけがこれを癒し、清める。
◎さあ、大胆にイエスの血によって神に近づこう。天に入って行こう。

安息に入れ

2019年7月14日  へブル人への手紙 4章 1~3節

安息に入る約束とは何か (1節)
◎旧約の人々は奴隷の地(エジプト)を出て、カナンの地(安息の地)に入るとの約束を受けた。しかし人々は入れなかった。
◎だから、この約束は新約の人々(私たち)に残された約束だ。
旧約の場合と新約の場合と状況は同じだ (2節)
◎安息日に入れとの “御言” を聞いたけれど、 旧約の人々はその地を攻め取ろうとしなかった。無理だと考え、神を疑った。
◎新約の私たちも、目前の様々な問題があるので、安息なんて無理だと考えていないか。
旧約の人々はなぜ安息の地に入れなかったのか(2節)
◎神の御言を聞いても信仰によって結びつけなかったからだ。換言すれば、御言が心に入ってこなかったからだ。 種を蒔いても石地のような地では実を結ばないのと同じだ。
◎その結果、人々は「荒野をさまよう民」になってしまった。
荒野をさまようクリスチャンですか、 それとも安息クリスチャンですか
◎どちらのクリスチャンも救われた人です。でも、神の御言を受け入れないので、荒野をさまよってしまうのだ。 不平不満が絶えない人生だ。
◎さあ、心を頑なにしないで、安息に入ろう。「荒野」は通過しなければならないが、 さまよう場所ではない。
御言を信じれば、 安息に入るのです (3節)。
御言は私の心をいやして安息の地にしてくれる (4章12節)
◎御言は私の心を “手術” する。
◎心にある不定愁訴。 ゆるせない心。比較したりうらやむ心。苛々したり怒る心。それは荒野だ。 御言を受け入れ、 御言の考え方に入れ替えてしまう。そこから安息の地は始まって行く。

なぜ人は肉と血を持つ存在なのか

2019年7月7日  へブルへの手紙 2章 5~18節

◎5節の「後の世」 とは神の御国(天国)のこと。それを御使たちではなく、人間に与えるというのだ。 天使たちに任せた方が忠実だし、立派にやるはずなのに………。
◎人間は御使よりも低い存在、であるのに、どうして人間に御国を治めさせようとなさるのだろうか (6~7節)。
神の御子イエスは、人の子としてこられることによって、肉体という弱さを持って生き、苦しみ、 十字架で死に、 そして復活の栄光にまで至ったお方だ(9節)。 ここに、 万物存在の目的が込められていると

神の御子が肉体という弱さを持って世に来るために、神は人間をあえて肉体という弱さの中に創造なさった。つまり、御使よりも低い者とした。だから、神は、人間の弱さを充分にあわれんでくださる。
◎むしろ、聖とする方(イエス・キリスト)も聖とされる者たち (人間) も目的はひとつだ。肉と血という弱さの中で、悪魔に打ち勝つという目的のもとに置かれている。だから、主は私たちを「兄弟だ」「友だ」「愛する花嫁だ」と呼んでくださる (11節)。

◎では、なぜイエスは肉と血をお持ちになったのか。 それは、 ご自分の死によって悪魔を滅ぼすためだ (14節)。
◎さらに、ではなぜ、イエスの死が悪魔を滅ぼすことになるのか。
◎肉体の弱さの究極が死だ。 その死に至るまで、 イエスは神を信頼し謙遜と従順を貫かれた。その従順ゆえに悪魔は滅びた肉体の弱さがあるからこそ、神への従順は輝きを増す。
◎イエスも私たちも、同じ血と肉という弱さを持って神に従順し、 悪魔を減ぼすために労苦している。 ゆえに、 私たちを友と呼んでくださる。