聖書に立ち還る

2018年3月11日 第二列王記  23章21~27節

 

①ヨシヤ王は暗闇に輝く世の光となった
◎ヨシヤ王は多難な時代に王となった。父アモン、父祖マナセは国に偶像礼拝を積極的に取り入れた王。父祖マナセの時代は、南ユダの暗黒時代と称されている。
◎世の力はまことの礼拝から引き離し、偶像礼拝へと向かわせる。なぜなら世の価値観は「人間中心」が基本だからだ。
◎かたや「主の祈り」の前半にあるように、キリスト信仰は「神中心」が基本。「人間中心」と「神中心」は相容れない。「肉は御霊に敵対する」「世はあなた方を憎む」と言われた通りだ。
ヨシヤ王の努力にもかかわらず、神は既に南ユダを滅ぼすと決めておられた。それでも、ヨシヤは神への真実を尽くした。世の光として生きた。世は滅びに向かっているが、私たちは希望の光として信仰を灯し続ける使命がある。

②ヨシヤ王は聖書に立ち還った
◎ヨシヤの改革は聖書に立ち還る運動だった。聖書を通して、自国が滅びに向かっていると分かった。偶像礼拝が罪だと分かった。
◎聖書が基準だ。聖書を基準にヨシヤは宗教改革を行った。

①偶像を取り除いた。我々にも偶像はないか。神の忌み嫌われる魔術、占いなどはないか。エペソ教会では銀5万相当の魔術本が焼却された。
②まことの礼拝の回復。久々の過越祭。過越祭はイスラエルの原点。アイデンティティ-だ。なのにそれは数百年も行われていなかった。新約のそれは「聖餐式」。主の死と復活を覚える礼拝のこと。

見えるようにしてください

2018年3月4日 第二列王記  6章8~19節

 

イスラエルに敵対するアラム軍(スリア軍)の動向は、預言者エリシャによって告げられ、イスラエルは守られていた。
①神の目には隠すことができない。
◎このことを知る時、私たちは神の御前に正直に歩むことができる。
神の視線(眼差し) を感じて生きることが「光の中を歩む」ことだ。
◎歴代の王たちは “主の目” にどうであったかが記されている。人の目ではなく、神の目を意識せよ。

アラム軍はエリシャを殺すために町を完全包囲した。エリシャの召使いには絶体絶命に思えた。肉眼で見ることが全てだったからだ。
②肉眼で見える範囲はわずかだ。
◎肉眼が見ている範囲はわずかだ。紫と赤の間だけ。
◎肉眼という制限を取り除いたら、神のこと、天国のことなどよく見えるはずだ。今、それが見えないのは、私たちが神への信頼と愛を学ぶためだ。神を信頼すること、神を愛すること・・・これが信仰だ。

エリシャは召使いの目が見えるようにと祈った。すると、現実を取りまく天の軍勢が見えた。
③信仰のメガネをかけよう
◎「目が開かれる」とは「信仰」というメガネをかけて現実を見ることだ。そのメガネはガラスではなく、神の御言でできている。このメガネを通して見る時、見えない世界が見えてくる。
◎駄目な人間だとか存在価値が無いなどと、悪魔は人の目を曇らせる。
死んだら絶望だと、悪魔は人の目を見えなくさせている。しかし、御言は「高価で尊い」と言い、「終わりの日によみがえる」と見せてくれる。

信仰の器を用意せよ

2018年2月25日 第二列王記  4章1~7節

 

夫を亡くして負債をかかえる婦人が、預言 者エリシャに助けを求めた。
神はどのようにして助けてくださるのか。

①あなたには何があるのか
◎神は私の手にあるものを用いて、ご自身の働きをなさる。彼女には油の壺ひとつしかなかった。人の目には “ひとつしか” ないのだが、信仰によって差し出された “ひとつしか” で神には充分だ。
◎「私には何も無い」と思っていないか。あなたにあるもの、”これしか” と思っているものを神にさしだそう。

②器を用意せよ
◎神は分け隔てなく恵みの雨を注いでおられる。しかし、それを受けとめる器が重要だ。大きな器を用意せよ。
◎「私なんかの祈りはきかれない」と思う人。それは茶碗程度の器で恵みを受け止める人だ。イエスは、「あなたの信じたとおりになるように」と言われた。つまり、器の大きさに応じて、受け取る恵みの量も変わってくるのだ。
◎隣人の器も借りてこいと言われた。それは、教会の兄姉の信仰も動員することだ。みなで器を出し合おう。

③達し得たところに従って感謝せよ
器がなくなると油は止まった。これならば、もっと多く用意しておけば良かったと思うか。それは欲張りだ。用意した器の分量に応じて、神はいつも丁度良くしてくださる。女の場合もそうだった。
◎大きい器を羨ましがってはならない。小さい器をひがんではならない。達し得たところに従って進み、感謝すべきだ。

まことの礼拝者になろう

2018年2月18日 第二列王記  3章9~12節

 

北イスラエルの王ヨラムと、南ユダの王ヨシャパテは連合軍を編成してモアブ討伐のため進軍したが、水不足のため立ち往生。進むことも退くこともできない状況になった。さあ、どうするか。

①ふたりの王の反応は対照的だ。
◎ヨラム王の反応……もう最悪!。神はわれらを見捨てた。悲観的でネガティブな反応。これを「ヨラム的クリスチャン」と呼ぶことにする。
◎ヨシャパテ王の反応……神に祈ろう。神の御心を求めよう。ことが上手く行かなくても、神を信頼してポジティブに反応する。これを「ヨシャパテ的クリスチャン」と呼ぼう。
◎両者の違いはどこから来たのだろうか。

②偶像礼拝が及ぼす影響とは……。
①偶像礼拝者は自分に都合の良いことが進むように祈る。(自分中心)だから、都合の悪いことが起こると、神に見放されたと感じる。願いことばかりして、神が何を願っておられるのかを問わない人々。
②偶像礼拝者は肉体的な必要を最優先する。(肉体中心)だから、一般宗教は人気がある。霊的必要には無関心。

③まことの礼拝者になろう。
◎とはいえ、神は私たちの肉の必要にも配慮なさる。荒野でマナを与えエリヤに食事を整え、5千人の人々の給食を用意なさった。
◎しかしそれは、私たちが霊魂の食物である御言で生きることを学ばせるため。まことのパンであるイエスを知るためだ。
◎さあ、まことの礼拝者になろう。神の御心はそこにあるのだから。

ここで何をしているのか

2018年2月11日 第一列王記  19章1~18節

比嘉正元牧師による説教です。

 

①神は燃え尽きた者に語られる方
◎エリヤはバアルとの信仰的戦いの大勝利の後、燃え尽きてしまった。神は燃え尽きたエリヤに「ここで何をしてるのか」(19:9, 13)と語ってくださる方。私はここ恵み教会で今何をしてるのか。今年何をすべきか?
◎私たちの信仰の歩みは 波に似ている。勝利を味わう時と失敗し穴の中に閉じこもる時がある。神はどちらの場合も良き牧者として導かれる。ヨナを牧する神(ヨナ書4:6)

②神は私たちの問題を直視させる方
◎神は二度「ここで何をしているのか」と質問された。エリヤは二度、「熱心に仕え 私だけが残りました 」と答えた。この認識はエリヤ自身の認識と、決めつけ、こだわりであった。
◎私たちは問題の中にいると、
・自分の思い込みから抜けられず
・自分流の決めつけを持っている
・自分だけがよく解っているとこだわってしよう。
試練とともに脱出の道も備えておられる神は、問題を直視させてくださる方です。

③神は極上の道を知っている方  (19:15 ~ 18)
◎エリヤは、「ここで何をすべきか。」を知った。それは、
・油を注いで、王と預言者を立てること。
・神を愛するものが 7,000人いると知るべきことだった。

この問いには世界中であなた以外には誰も答えられない。
あなたは「ここで何をしているのか」。

それにもかかわらず

2018年1月28日 第一列王記  15章1~5節

 

ソロモン王の評価。その子レハブアムの評価。その子アビヤムの評価。いずれも罪と堕落の歴史だ。

①聖書は私たち罪人の姿を映し出している。
◎罪の歴史を読むのはつらいことだ。聖書は自分の真の姿を映し出す鏡のようだ。ガラス製の鏡は外側の姿を映し出す。レントゲンやMRIは体内を映し出すが罪人の姿までは見えない。
◎永遠の滅びに至る “罪人(つみびと)” という病を知ったら、それを癒されるイエス・キリストのもとに行くのだ。
◎各王の母の名が記されている。時に、アビヤムとアサの母はマアカである。忌むべき出生だ。

②それにもかかわらず、ひとつのともしびが与えられた。
◎呪われた家系、絶望的な境遇。しかし、「それにもかかわらず」の世界が用意されている。それはアサ王の出現、希望の光のこと。アサ王の評価を見よ(15:11~14)。
◎聖書は罪の暗闇で終わらない。”それにもかかわらず” という恵みの世界がひかえている。

③「ダビデに免じて」とは「ダビデとの契約の故に」である。
◎なにゆえに神は、罪にまみれた家系に恵みを施されるのか。それはダビデとの約束の故である(第二サムエル記7:12~16)。その契約は、恵みを取り去らない。罪を犯したら懲らしめられる。王国は堅く立つ。
◎ダビデとの約束の故に(つまりダビデに免じて)、アサ王を起こされた。バビロン捕囚から帰還された。離散の民イスラエルを1948年に復興なさった。神はご自身の約束を守られる真実なお方だ。
◎今や新しい契約の時代。イエス・キリストの故に、神は私たちに恵みを施される。神は真実な方であり、この約束を貫徹なさるのだ。

イエスの御名を置くところ

2018年1月28日 第一列王記  8章27~30節

 

①神は私たちと共に住まわれるお方だ
◎神は遠く離れておいででない。神は人をご自身の働きのパートナーとして創造し、ご自身に似せて創造なさった。だから、共に住まわれるお方だ。
◎逃亡中のヤコブにも、投獄中のヨセフにも、荒野を旅する民にも、神は共に住まわれた。その実際が幕屋(神殿)を通して啓示された。
◎列王記、歴代誌はこの神殿を汚してはならないことを教えている。

②神はご自身の名を尊ばれる
◎神殿は神の御名を置くところだ。時存者なる神は ”天(Sky・Space)”にも ”天の天(Heaven)”にもお入れすることのできない存在。
◎だから、神はご自分の名を置かれた。神の名のあるところに神も共におられる。人が自分の名を尊ぶように、神はそれ以上にご自分の名を尊ばれる。
◎わたしの名で集まるところにわたしも共に居ると約束されたように、御名を讃美するところに神は共におられる。御名によって祈るところに、神は耳も関心も注がれる。

③神の名・・・それは「イエス」
◎旧約聖書に啓示された神の名はYHWH(ヤーウェ)。これを日本語では”主”と翻訳。でも、この名は御使いが紹介した名だ。しかし、神の御子が啓示した名は「イエス」。前述の名よりまさった名だ(へブル1:14)
◎「イエス」という名は、御子が天の父から受け継いだ名だ(ヨハネ17:6、11)。新約の私たちはこのイエスの名を受けて罪をゆるされ、イエスの名によって神の子にされ、イエスの名によって祈るようになった。
◎最高の名だ。この名こそ、神が永遠に耳を傾け関心を注がれる名だ。だから、大胆にイエスの名を讃美し、イエスの名で祈ろう。