たとえそうでなくても

2019年10月13日  ダニエル書 3章 13~30節

 
◎ネプガデネザル王は金の像を建立し、礼拝を強要した。先には、ダニエルによる夢の解説を得て、まことの神を賛美したはずなのに (2:47-49)、 いったい、どうなってしまったのだろうか。
◎これは、罪人の根っ子の部分にある「自分を神とする」 罪のなせる業だ。聖書は、そのように自分を神とする王とか、 王国のことを “” と呼んでいる。ちなみに、 バビロンは 「獅子のような獣」である。
◎以後、種々の “” が世界を支配するが、 第四の獣の時代にそれは滅ぼされ、神の御国は完成すると、 聖書は預言している。
◎自分を神とする罪の源流は、 堕落した天使(サタン・悪魔)にある。私たちは、この獣に属するものではない。 飼い主イエスに属する羊だ。

◎さて、金の像を拝まなかった三人は燃える火の炉に投げ込まれることになった。彼らの告白には信仰の本質が込められている。 第一に、神は唯一で、全能のお方だ。 だから、火の炉の中からも救い出すことができる神だ。 第二に “たとえそうでなくても” 神への信頼は揺らがない。
◎人間の都合の良いことをしてくださる神ではない。そのような信じ方は、人間中心の宗教だ。聖書の信仰は「神中心」である。神の御心が成るために、時には私には不利益なこともある。だからといって、神を信じなくなるのではない。とはいえ、神は真実な父である。 私たちを子として扱っておられることを忘れてはならない。
◎神が私たちを愛される愛は、 どんな事があっても変わらない。 ならば、私たちも、どんな事があっても神を信頼する。これが信仰の関係だ。
◎神のなさることは時に理解できない。 信じているのに、火の炉に投げ込まれるのですか。自分には理由が分からなくても、 神がご存知であることにゆだねるのだ。天に行って、真意が明かされることを信じて······。

身を汚すまいと心に定めた

2019年10月6日  ダニエル書 1章 1~24節


◎バビロンの捕囚となったダニエルたちは、王のもとで養われることになった。それは、次期ユダヤ人リーダーをバビロン化する政策であった。 しかし、彼らは「王の食事で身を汚すまいと心に定めた」 (1:8)。 王の食事の中で肉と酒は、バビロンの偶像礼拝と密接に関係していた。それを食することで、偶像礼拝の影響を受けまいとしたのである。
◎旧約では律法によって食物規定があって、食してはならない食物がある。当時のそれは偶像礼拝の供物であるため、イスラエルの民を偶像礼拝から遠ざけ区別するために規定されたものであった。
◎新約の時代でも、 クリスチャンはこの世と区別された存在。 真理(神の御言)によって聖別されていると、主は宣言された。この区別を嫌って、世の人と同じであろうとするなら、 天国人としての味を失うことになる。

◎バビロンの王がユダヤ人をバビロン化しようとしたように、 この世の力は、私たちを世俗化しようと働いている。新約の私たちも、身を汚すまいと心に定めることが重要だ。
◎ダニエルたちが王の食事を断り野菜で生きようとしたように、 私たちは神の御言で生きようと心に定めるのだ。 旧約の民が、食物によって偶像礼拝者と区別されたように、 私たちは神の御言で生きようとすることで区別される。

◎神の御言で生きられるだろうか。そんな心配をよそに、 神は未信者の宦官に慈しむ心を与えたように (1:9)、 神は助けをお与えになるはずだ。
◎むしろ、心を定めず中途半端が危険だ。 終わりの時代は、 信じているのか否かが明確になる時代だ。
◎御言で生きる者たちは、そうでない者たちより、 実りは何十倍も多いことが明らかになるだろう (1:20)。それは御霊の実だ。

息よ、四方から吹いてこい

2019年9月29日  エゼキエル書 37章 1~14節

 
◎エゼキエルはひとつの幻を見た。それは干からびた大量の骨だった。神は、この骨が生き返るかと質問された。不可能と思える質問に、 あなたはどう応えるだろうか。これは信仰のチャレンジだ。
◎この骨は捕囚の民イスラエルのことだ (11)。彼らは望みが絶えてしまった。今の時代の人々も、 望みが絶え、干からびた骨の状態は同じだ。

◎干からびた骨が再生するように、バビロン捕囚のイスラエルは復興するのだと主は約束された。事実、 彼らはバビロンから帰選し国は復興した。しかし、その後ローマ軍によってバビロンの時以上に破壊を経験した。
◎なぜか。国としての体裁は成っていても息がなかったからだ (8)。 彼らは十字架のイエスを拒み、その聖霊を拒んだ。しかし、再び、神は干からびた骨であるイスラエルを復興させておられる。◎やがて、彼らにもイエスを信じる信仰が与えられ、聖霊が注がれ、人類の救いの計画が完成する時が来るであろう。

では、現代の私たちの場合はどうだろうか。干からびた骨のような状況の中から、どのように生き返るであろうか。
①千からびた骨よ、主の御言を聞け! (4)
御言を聞くことから始めよう。イエスの御言を聞いた人々は皆生きた。 「子よ、 あなたの罪はゆるされた。床を取り上げて歩け」と。「ザアカイよ。 今日あなたの所に泊まることにしている」と。彼らは皆生きた。
②息よ、四方から吹いてこい! (9)
息とは聖霊のこと(14)。 アダムは息を吹き込まれて生きた者(霊)となった。主は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と。聖霊の交わりの中で、人は神と共に生きるのだ。それこそ人が本当に生きるということ。自分も生き、隣人も生きよ。

石の心を取り除く

2019年9月22日  エゼキエル書 36章 22~32節

 
①神はご自分の名を尊ばれる
◎22節の「このこと」 とは、 イスラエルをバビロンから連れ戻し、彼らを聖なる国民として完成すること。
◎それは彼らのためではなく (32)、 ご自分の御名のためである。神はご自分の御名を尊ばれる。 人間中心ではなく神中心の世界観を持とう。

②神の聖なる民が完成するためのプロセスがある
<1>イスラエルを約束の地に戻す(24)。 バピロンからの帰還。
<2>罪からのきよめ(25)。主の十字架によって。
<3>新しい霊を注ぐ(26-27)。ペンテコステの聖霊降臨。
<4>神の聖なる民の完成と祝福(28-30)。
◎しかし、多くのイスラエル(ユダヤ人)はイエスを拒絶した結果、 プロセス4に至っていない。むしろ、 その福音は異邦人に伝えられた。神は計画を変更なさったのか。 伝統的な置換神学はそう考えた。
◎いまは「異邦人の期間」が挿入された時代。このことは奥義だ。
◎もう一度、このプロセスは実現される。そのために、神は再びイスラエルを約束の地に連れ戻しておられる。

③石の心を取り除く
◎先のイスラエルへの約束は、 異邦人にも分かち与えられている。
聖霊を注いで、石の心を取り除かれる。 石の心とは、 神に反抗する頑なな心。御言を素直に受け入れない高慢の心。
◎石地に蒔かれた種(御言)は根が張らず、鳥に食べられたり枯れてしまった。神は、 試練や困難の中で石の心を砕かれる。豊かな実を結び、天での祝宴に喜びの実をたずさえて行く者は幸いだ。

世に勝つ者はだれか

2019年9月15日  ヨハネの第一の手紙 5章 1~5節

◎「世に勝つ」とは、 悪魔による罪の支配下にある世界に勝つことを意味している。 私たちの戦いは血肉に対する戦いではない。
◎この世は便利で快適な世界だろうか。ニートや引きこもり人口は 100万とも200万とも言われる。 自死する人が年間3万人を越える。 まさに、 この世は悪しき者の支配下にあるのだ (5:19)。

◎世に勝つとは、 武力や権力によって勝つのではなく、愛することによってである。律法(十戒) の本質も「愛せよ」という命令である。
◎この「愛する」という性質は、 神から生まれた者が受け継いでいる。 丁度、猫から生まれた猫は、 猫のように生きるように、 神から生まれた者は、 神が愛であられるので、 愛する性質を受け継いでいるのだ。この「神から生まれた者」が世に勝つことができる。
◎世に負けるとは、経済的な困窮のことではない。 出世できないことでもない。愛という神の性質、 世の光、 地の塩としての性質を失うことだ。

◎イエス様は終わりの時代を予告なさった。国は国に、 民族は民族に敵対する時代だ。互いが憎しみ合い、愛が冷える時代だと。このような世界で世に勝つ者は、神から生まれた者だ。
◎果たして自分にできるだろうか。でも、重荷にはならないと言う (5:3)。何故なら神から生まれた者だからだ。
◎逆をいえば、世から生まれた者は世に勝つことができない。 世で生み出された法律も、 政治システムも、 科学文明も、 また、世で生まれ育った優秀な人材も、世に勝つことはできない。罪の力はそれほどに大きい。
イエスを信じるものは神から生まれたので、 愛する性質を受け継いでいる。神のきよさという塩味を受け継いでいるのだ。 それを世に現そう。

神が共におられる生活

2019年9月8日  ヨハネの第一の手紙   4章 7~12節

◎ヨハネの手紙は「神との親しい交わり」を教えている。そのために……

第一に、罪を言いあらわしなさい(1:9)。 神は私の罪をご存知だが、無理矢理私の中に入ってこられるのではない。 私が罪を言いあらわすとは、 心のとびらを開くことだ。
◎開いたとびらから神の光がさしこんできて、神は真実で正しい方であるから、罪を赦し、きよめてくださる。罪を犯さない克己心が重要なのではない。いつも神の光に照らしてもらっていることが重要。

第二に、互いに愛し合いなさい (4:12)。上記のことは目に見えない神との交わりのことであったが、 それは目に見える人間同志の関係とリンクしている。互いに愛し合うことは二つのことを意味する。

神が共におられるのだ (4:12)。神は目に見えないが、 互いに愛し合う中に、 私が語っているようで実は神が語っておられる。私が手をおいて祈っているようだが、実は神がふれてくださっている…という、 神との交わりを表している。
神の愛が全うされる (4:12)。神の愛は完全だ。時間制限、人数制限、種類の制限もない。しかし私たち人間の愛には随分と制限がある。弱い愛。不完全な愛。
そんな弱さのある私たちを通して、愛が地に満ちるための大役を仰せつかった。幼な子におつかいをさせるように、 父なる神は私たちに、神の愛の完成のために「互いに愛し合いなさい」と命じられた。
神の愛を現す大役に耐えきれない私たちだが、弱さがあるからこそ、 そこに愛が現される。 弱さは、 愛を実践するすばらしい場所なのだ。