復活の奥義

2019年4月21日 コリント人への第一の手紙  15章50~58節


◎復活がなければ信仰は空虚だ(15:17)。復活は神から私たちへの「報い」だ。神は、私たちの信仰に報いてくださる。だから、励みなさいと命令している。
◎肉の体で復活するのではない。朽ちない体に復活する

◎ラッパが鳴り渡るとき ……とあるが、主イエスの再臨の時だ。イスラエルの民はラッパの合図で天幕を片付け旅立った。同様に、肉の体は終わって朽ちない体に復活して天に入る。

◎現在の肉体は地上で働くための「幕屋」であり「」のようだ。服である肉体はやがて朽ちる。服のために生きるのではなく、服を着て神の栄光のために生きる。これが信仰生活

◎種はまかれるとその形状は朽ちるが、そこから新しい生命が始まるように種のように肉体でまかれて、御霊に属する体に復活する (15:42-44)。つまり、御言によって養われた霊魂が復活の体に変化する。
◎蝶の幼虫は葉っぱを食べて、やがて死んだような「サナギ」になるが、やがて美しい蝶となって姿をあらわす。まるで復活の奥義を表現しているように思う。

◎神の御言を食べるとは記憶することではない。記憶は肉体(脳細胞)に記録されて、肉体が朽ちると共に消えて行く。
◎御言を食べるとは体験することだ。聞いて行うとは体験を意味する。体験した御言は私の霊魂に刻まれる。肉体が朽ちても消えない。
◎歳をとり肉体が弱り様々な記憶が薄れても、御言に養われた霊魂は輝きを増す。そして遂に朽ちない体に復活する。

誰でもキリストの内にあるなら

2019年3月24日 コリント人への第二の手紙    5章17節


1)だれでも……
◎”だれでも” とは限界がないということ。
◎この世界では限界だらけだ。先着10名様とか、季節限定とか……。なぜなら人間には限界があるからだ。
◎しかし神は限界がないお方だ。永遠なるお方だからだ。
◎人は全員を愛することはできない。すべてをゆることもできない。しかし、限界のない神は、だれをも愛し、すべてがゆるされる。このキリストの内にあるなら……である。

2)キリストの内にあるなら……
◎”内にある” とは不思議な表現だ。それはキリストを信じることだが換言すれば「キリストの中で生きる」ことだ。キリストという家の中で暮らすようなものだ。
このキリストの中に、いのちも愛もゆるしも、希望もいやしも満ち満ちている。そしてそれはみなキリストの中で暮らすあなたのものだ
◎あなたは愛する力がなくて悩んでいるか。心配は不要。キリストの中にその愛はあふれており、それはあなたのものだからだ。

3)新しく造られた者です……
◎キリスト信仰は苦行をするのではない。キリストと共に生きることだ。キリストに住んでいただくことで、新しく造られることだ。
◎夫婦でも親子でも、特別な訓練をしなくても、良いことも悪いことも身につけてしまう。そのように、キリストと共に暮らすことで、キリストの良いものを受け継ぐのだ。
◎愛せない古いあなたは過ぎ去った。キリストの愛で生きるので、新しく造られたものだ。憎しみに縛られた古いあなたは過ぎ去った。キリストのゆるしの人生を生きるのだ。だから、あなたは新しい人だ。

四つの命令

2019年2月3日 コリント人への第一の手紙 16章13~14節

 

①目をさましていなさい。
◎肉体の目ではなく「の目」のこと。人は霊的存在だから、霊的な感覚に目覚めていないと、肉の感覚で生きようとしてしまう。それは生物学的に棲息しているのであって「生きている」のではない。
◎目をさましていて主人の帰りを迎える者は幸いだと主は言われた。主イエスの再臨に焦点を合わせていることが「目をさます」ことだ。
◎目先の現実も大切にしなければならないが、それだけでは霊的近視眼になってしまう。再臨によって実現する永遠の栄光に目をそそごう。

②かたく信仰に立ちなさい。
◎「信仰に立つ」とは信仰を土台にすることだ。信仰はアクセサリーのようにつけたりはずしたりしてはならない。
◎信仰に立つとは神の御言に立つことだ。御言を基準に心を建てあげよう。御言を基準に生活設計をしよう。

③男らしく強くありなさい。
◎「男らしく」とは男女関係なく「いさぎよく」という意味。出エジプトしながらエジプトを恋い慕うのはいさぎよくない。鋤に手をかけながら後ろを振り向くのはいさぎよくない。
◎肉の感覚とは、この地上への未練だ。地上にしがみつこうとする感覚だ。それが天国へ旅立つことを妨げている。硫黄の火で滅びるソドムから救い出されたロトの家族の中で、妻は振り向いて塩の柱になった。いさぎよく、肉の思い(未練)を断ち切る者は幸いだ。

④いっさいのことを愛をもって行いなさい。
◎出エジプトした民は老若男女。足の速い者、遅い者。健康な者、病んでいる者。そこには互いをいたわり合う愛が必要だった。それぞれの信仰の段階に応じて進もう。互いを認め、励ましあう愛をもって。

徳を高める言葉

2019年1月20日 コリント人への第一の手紙 14章1~5節


◎聖霊は私たちに賜物(カリスマ)をお与えになる。それは、救いのためではない。救いのためには御子イエスをくださった。御子を信じる者は、救いを受け、永遠のいのちをもつ。
◎聖霊の賜物は、救われた者がキリストの証人として働くため。各自異なった賜物の者たちが集まり、キリストの体として建て上げられるためである。

◎賜物の中で異言と預言が取り上げられている。両方とも言葉の賜物だ。聖書は、舌を制する者は完全な者だと教えている (ヤコブ2章)。言葉を発する舌は舵であって、人生の行き先を決める。あなたは何を語るのか。
◎御霊は私の舌をもって、徳を高める言葉を語らせる。「徳を高める」とは、オイユドメオー(ギリシャ語)で、「建て上げる」の意味。
異言は私の内なる霊が神に向かって語る言葉。異言による神との交わりが深められて、私の霊は神の住まいとして建て上げられる” のだ。
◎知性でも祈るが、異言は霊によって祈る(14-15)。知性の祈りの言葉には限界がある。人格的交わりには言葉が必要だが、知性の言葉はあまりにももどかしい。異言は、神との深い交わりをもたらし、私自身が建て上げられる。

預言は理解できる言葉で人に向かって語る。この預言は、未来を予告したり、聖書を記した預言者らのような領域の預言ではない。励ましの言葉教会や人間関係を建て上げる言葉である。
◎なのに、預言によらず肉なる言葉によって、教会をまたその交わりを壊してしまう。だから、預言の賜物を求めよと聖書は勧めている (39-40)。
◎互いの成長のために、キリストの体として建て上げられるために、神からの適切な言葉を語ろう。それが預言の賜物だ。

愛する賜物を求めよ

2019年1月13日    コリント人への第一の手紙    13章1~13節

 
◎神は人を均等には創造なさっていない。違いのある差のある存在として創造なさった。1タントの者、2タラント、5タラントの者がある。このような違いは優劣や誰が偉いかの根拠にしてはならない。
◎しかし、コリント教会の人々は、その違いを肉の感覚で受けとめ、誰が偉いのかを誇っていた。肉の世界ではいつも、「誰が偉いか」が話題になる。
しかし、天国には偉い人はひとりもいない。しもべたちの世界だ。
◎地上の価値観は “違い”を “偉い” に変えてしまうが、天国は違う。教会は違う。それは働きの違い、役割の違いだ。各々の違いが組み合わさってキリストの体を構成するためだ(12:27)。身体の中で目が手よりも偉いとか偉くないといった議論は全く意味がない。
◎私たちは各自は違うが、キリストの手のように病人に手をおいていやす人もいれば、キリストの足のように福音を持ち運ぶ人もいる。ある人はキリストの口のように語り、ある人はキリストの目のような愛の眼差しを注ぐ。
◎そのように、違いのある者たちが結び合わされて、キリストの姿になって行くために、私たちは創造され、召されたのだ。そして、キリストの体としてひとつになるために最も重要な賜物が「愛」だ。第13章は、愛に満ちた崇高な個人になるよう勧めているのではなく、むしろ12章からの文脈で読み解くべきだ。
各自は不完全だが、キリストの体として結び合わされるとき、完全なものとなって行く。互いがキリストの体として結び合わされるために、寛容で親切であれ……それが愛だ。足が目をねたまない、口が手に対して自慢しない、これが愛なのだ。
愛は神からの「賜物」だ。だから受け取るのだ。だから求めよう。

神は真実な方である

2019年1月6日    コリント人への第一の手紙    10章11~13節

◎コリント教会は救いを受けたクリスチャンであったが、肉に属する人々であった。それはキリストにある幼な子だ。柔らかい食物(御言)を食べても、堅い食物(御言)を食べることが出来ない。
◎キリストにある成人に至るには堅い食物を食べる。例えば「賞を得るように走れ。そのためには節制する」(9:4-25)。

◎「賞を得る」とは「救い」のことではない。救いはイエスを信じることによって誰でも受ける。「賞」とは「冠」とも呼ばれる。神からの報酬である。救いは恵みであって報酬ではない。区別しよう。

◎賞を得るには罪と戦わなくてはならない。旧約聖書の人々は「悪をむさぼった」ので賞を得られなかった(10:1-12)。荒野の旅を通して、神は試練をお与えになった。それは、私たちの中から不純物を焼き滅ぼし、ガラスのような純金を得ようとなさるからだ。しかし、神は真実なお方だ。だから……、

①人の知らない試練はない。
他の人々も受ける。自分だけではない。さらに、私たちの主イエスも同じ試練を受けたがゆえに、私たちを思いやってくださる。
②耐えられないような試練をお与えにならない。
負荷をかけることで心の筋力を鍛える。鍛えられた心とは、希望を見出すことのできる心だ。
③脱出の道を用意なさっている。
試練(荒野)は私を滅ぼすためではない。荒野でイスラエルが青銅の蛇を見上げて癒されたように、私たちは十字架のイエスを見上げる。悔い改めて主を見上げる……これこそ「脱出の道」。

見えないものに目を注ぐ

2018年12月 16日    コリント人への第二の手紙  4章 18節    青木悠樹兄による説教

 

◎私たちには神様が見えず、見えないから神様は永遠である。
いまだかつて神を見た者はいない。ヨハネ1:18)
◎礼拝も見えない。礼拝の行為は見えるが、礼拝を通して私たちが神様とどのように向き合っているかは見えない。
◎教会も見えない。教会はキリストのからだであるからである。
教会はキリストのからだであり……」(エペソ1:23)

◎恵みキリスト教会の建物は見えるが、教会は建物を指しているのではない。キリストのからだの一つの器官として機能しているのが恵みキリスト教会である。
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12:27)

◎教会では「教会のビジョンは?」ということがよく言われる。箴言29:18 にあるように、預言者がいない現代においても、教会がビジョンを持つことは大切である。
◎「教会のビジョン」は見えるものか。目に見えないキリストの器官を担っている各教会が、目に見える形で教会の未来を解決しようとする教会運営は一時的なものでしかない。そのため、「教会のビジョン」は見えないものである。
◎私たちは目に見えない教会に集い、礼拝を通して見えない神様と出会い、見えない霊的な力をもらう。こうした経験から得た「神様、すごい!」の喜びを共有し、キリストの器官である目に見えない教会を建てあげていこう、という一致した思いを持つことが教会のビジョンである。

教会のビジョンまだ見ていない神様、未来を確信すること信仰

朽ちない冠を受けるために

2018年12月 2日    コリント人への第一の手紙    9章 24~27節

 

①第一コリント書を整理しよう。
◎3章では「私たちは神の神殿」と。つまり霊的存在だ。だから、肉の力で神殿を建てあげるなら失敗する。4章では、私たちはその神殿を管理する者だと。管理者に要求されることは「忠実」だ。
◎どのように管理するか。不品行を取り除け (5章)。互いの争いを許し合い仲裁せよ (6章)。結婚は聖なるものだ(7章)。他者を躓けないよう自由を自制せよ (8章)。

②自由と制限について。
◎キリストにあってすべては自由だ。しかし、その自由を肉の働く機会としてはならない。すべてが自由だが、すべてが益になるのではない
◎聖霊の支配の下で制御できる自由こそ本当の自由だ。パウロは、自分は自由だ、権利があると主張するが、それを福音宣教のために自制していると証ししている。
◎それを律法によって制限するなら窮屈で負担だ。しかし、御霊のあるところに自由がある。安息のある制限だ。なぜそうするのか?

③朽ちない冠を受けるためだ
◎「朽ちない冠」とは「」のこと。これは救いのことではない。救いはイエスを信じることによって与えられる恵み。朝から働いた者も、夕方5時から働いた者も、同じ1デナリを受けた。
◎しかし、「賞」はキリストと共に苦労した者への報いだ。このためには、肉なる自由を聖霊によって自制する。福音を伝えるために自由を制限する生き方だ。
◎肉の働きは朽ちてしまう木や草や藁の建物だ。救いを得るものの、その働きは空しい。朽ちない冠とは、金や銀や宝石で建てあげることだ。
◎朽ちない冠(賞)を得るように生きよう。